UFOふれあい館の宇宙人キャラクター

ご当地キャラクターがブームですね。ご当地キャラクター協会によると、ご当地キャラクターの定義は、

・ある特定の地域や、その地域の特産品、観光地、イベントなどをPRする目的で誕生し、活発に活動をおこない、地元愛を持って元気や笑顔溢れる地元活性化を達成しようとしていること。
・イラストではなく実物が存在すること。ただし、人間の皮膚に似た外観が無いこと。

とあります。残念ながら、宇宙人キャラクターはイラストのみで実物は存在しないので、ご当地キャラクターには該当しないようですね。

添付画像の「UFOふれあい館 宇宙人大図鑑」には、UFOふれあい館の宇宙人キャラクターが書かれていて、宇宙のどこから来たのかなどが分かるようになっています。UFOふれあい館には10体のキャラクターがいるんですよ。ちなみに一番人気はわたくし「U-タン」ですが…(ドヤ顔)。

宇宙人キャラクターは、山頂までのUFO道(遊歩道)に石像で出没して、山頂までの道案内をしてくれます。宇宙人キャラクターは缶バッチにもなっていて、UFO物産館で購入できます。

なお、「UFOふれあい館」のツイッターはこちらです。更新時を「UFOの里ブログ」の更新時をお知らせしていますので、御活用ください。 https://twitter.com/info_ufo

宇宙人大図鑑(参考)

 

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荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#8

s-荒井欣一(T氏)そして、再び活動を再開されたのはいつ頃ですか?

(荒井)そう、昭和35年に休会してから5年ほどはこれといって何もしなかった。それが昭和40年ごろかな、銀座通りを歩いていると、一緒に会をきりもりして頑張って下さった柴野拓美さんにバッタリ出会ったんですよ。「どうしてるんだ」と言うから、「いやあ、もうUFOは止めようかと思ってるんだ」というと、柴野さんは、そんなこと言うなよ、というんだ。今イエナに行ったら面白いUFOの本を見つめたからぜひ読みたまえというわけだ。それは「オフィシャルUFO」の特集版でした。なるほど買って読んでみると、この5年の間にずいぶんいろんな事件も起こっていて、たいへん面白かった。こちらは海外とも交流を断ってましたから、知らないニュースもずいぶんある。それで、こういうものをベースにして、まだ研究を続けている人や、これから始める人たちにも協力しようかと思いなおしましてね、再びいろんな資料や本を漁り始めたわけです。

すると、たまたま神戸の平田留三さんが高梨さんと分かれて日本UFO研究会というのを設立されまして、彼が機関誌に何か書いてくれと言ってきたんですよ。それでまあ、私は高梨さんに対して遠慮もあったんで、最初はペン・ネームで書き始めたんです。今ではお二人も仲良くつきあっておられますが、平田さんは近代宇宙旅行研究会の理事の一人で調査部長をしておられたのが、高梨さんの運営が独善的だというので、いわばケンカ別れして独自に一派を構えられたといういきさつがありましてね。私はどちらの肩をもつというわけではないんで、ペン・ネームで書き始めたわけですが、そのうちにお二人はそれぞれの機関誌上で相手の攻撃を始めたんで、これはイカンと思って、私が間に入りましてね、それで、どうせ私が書いてるってわかってきましたので、ペン・ネームをやめて、荒井欣一の名で「UFO事件の問題点を探る」というのを10回ばかり連載したわけです。それで、これがキッカケとなって、会は休会のままですが、個人として再び活動するようになったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#7

s-荒井欣一(荒井)また、昭和33年には、悪名高い警職法が国会に上程されました。あの法律によってUFOの研究まで規制される可能性があった。何かふしぎなことを研究して、世の中を不安に落し入れるものだ、というような誹謗もありましたしね。われわれはそれに対して、UFOの研究こそ人類の将来を決定づけるもっとも重要な問題だ、それを一片の法律によって葬り去られてはかなわないと思って反対声明を出しました。これは朝、毎、読の新聞にも報道されましたよ。もちろん多くの人が反対したので、わたしたちの声明がどれほどの効果があったかわかりませんが、ともかくあんな法案は廃案になってしまったわけです。

今のUFO研究団体というのは確かに科学的な研究は地道にやっているかもしれないけれど、こういう社会に問いかけるという姿勢が欠如しているように思います。

(T氏)それだけ先駆的に、熱心に活動されてきたのに、休会を余儀なくされたときは残念でしたでしょう。

(荒井)ええ、一時は千人近くいた会員がだんだん減りましてね、財政は大赤字になるし、体力的にも精神的にも疲れましてね、いったん集めた会費をお返しして休会にしたんです。

(T氏)やはり宇宙友好協会(CBA)問題が影を落とした。ということはありますか?

(荒井)CBAもそれなりに立派なところもあって、我々が持ってないような海外の資料も機関誌に掲載してました。それはよかったのですが、コンタクト・ストーリーを無批判に受け入れ地軸が傾くか宇宙連合が助けに来てくれるという騒動を経て、どんどんおかしな方向へ行ってしまいましてねえ、赤外線宇宙交信機なるものの発明者であるG・H・ウィリアムスンという妙なアメリカ人を彼らが招聘したときには、公開質問状をぶつけてみいたのですが、まったくナシのツブテ、これはこのままいくとUFO研究の危惧だというので、「UFOの研究の本道」という声明文を発表して、我々の立場を明確にしたのです。

まあしかし、こちらがある意味で固苦しいのに対して、あちらは面白いといえば面白いですからねえ、それにもう宗教的な熱狂性を帯びてましたから、こちらの会員でCBAに乗り換えた人もいるでしょうし、あるいは私たちが危惧したように、CBAの狂態を見て、しょせんUFOなんてというので脱落してしまった人もいたのかもしれません。

まあ、私も病気になるし、金もなくなちゃったし、休会といっても、ホントのこというと、円盤はもうこれで終わりにしようとまで思いました。CBA問題以外にも、安井清隆さんのコンタクトも問題なんかもあって、どうもみんなハッキリしないことばかりではないか、という絶望感にもとらわれましたからね。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#6

s-荒井欣一(T氏)マスコミはとかくそういうことが多いようですね。それからさきほども話題に出た「宇宙平和宣言」ですか、あれを始めとして、よく声明書のようなものを出されてますね。

(荒井)ええ、最初に申し上げましたように、科学的な追求ということはもちろんいちばんの基本であり、たいへん大事なことですが、やはりそれだけではダメだと私は思います。UFOの存在そのものが、人類の将来にとって、たいへん重大な意味をもっている、そういう観点にたつならば、当然、社会に問いかけるという姿勢が必要でしょうし、一般大衆にもアピールするUFO研究でなければならない。それで機会あるごとに、自分たちの見解を声明書という形で発表したわけです。

(T氏)「宇宙平和宣言」には、JFSA以外の団体も署名しておられますね。

(荒井)ええ、ちょうど昭和32年7月にJFSA発足2周年記念の講演会を行いまして、高梨さんはじめ、他の研究グループの方にも来ていただきましてね、ちょうどいい機会だということで私が音頭をとりまして、研究会相互の協力を目的とする全日本空飛ぶ円盤研究連合を発足させたわけです。それで、あの「宇宙平和宣言」は私が起草したものですが、JFSAだけではなく、他の皆さんにも呼びかけ共同声明の形にしたのです。

毎日新聞に東京天文台長の宮地政司さんが、「円盤は飛ばず」という一文を発表されたことがありましたが、これがメンゼル説のまったくの受け売りでしてね、我々は、メンゼル説だけではUFO問題は解決しませんよということで、会員のみなさんの発言を含めて、「それでも円盤は飛ぶ」という声明文を発表しました。

また、昭和32年、ソ連が原爆を積んだロケットを月に命中させるという噂が外電で広く報道されましたが、このときには「月ロケット発射に関する要望」という声明書をソ連大使に手渡しまして、月にUFO基地がある可能性を訴えました。で、この我々の声がフルシチョフに届いたためかどうかわかりませんが、あれほど騒がれたソ連の月ロケット計画は中止になったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#5

s-荒井欣一(荒井)それから日本軽金属と東洋金属へ行って見せたのですが「こんなものは作ってないし、また用途も不明」という返事でした。顧問をお願いしておりました糸川英夫博士のところへもって行くと、米軍の気象観測用ロケットに使うものではないだろうかとおっしゃるので、気象庁の観測部高層課へ行ったのですが、こんなものを気象観測に使うことはないという返事でした。

そこで、もうひとつの可能性として米軍がレーダーの防空演習に使ったんではないかと思いまして、アメリカ大使館に空軍武官のラモール少佐を柴野拓美さんといっしょに訪ねたわけです。すると、9月9日には銚子付近で演習があったが、問題の金属箔の落ちた7日にはやってない、またレーダー妨害用の金属箔を落とすが、これ一種類だけがかたまって落ちていたというのは解せない、またこのような箔を扱ったことはあまりないというんです。そしてともかく調べてみるから預かりたいというのです。それで、ともかく預けて帰ったんだが、1週間たっても1か月たっても返事がない。たまりかねて、再び乗り込みましたところ、「あれは米軍のものだった」という一点張りで返そうとしない。じゃあ何に使ったのかというと一切ノーコメントだったんです。

(T氏)へえー、それは奇怪ですね。結局、それっきり金属箔はもどってこなかったんですか?

(荒井)ええ、それで私はこの10年間というもの、あの金属片がてっきりなくなったものと思って悔やんでいたんですが、最近になってよく探すと少し残ってましてね。やはり警戒して全部は持って行かなかったんですな。もう一度あらためて分析してみるつもりです。

(T氏)新事実が分かりましたらぜひ本誌に発表して下さいよ。

(荒井)ええ、そうしましょう。それから、エンゼル・ヘアー事件というのもあったなあ。最近の本を見ると、エンゼル・ヘアーの写真として、ボクらが撮影したのがのっているけれども、あれはエンゼル・ヘアーじゃないんですよ。最近、山形県の学校の先生からエンゼル・ヘアーらしきものが落ちてきたので調べてほしいという電話が入ったのです。まあ、はじめのうちはみんな興奮しましてね。ところが現地調査してみると、はしに小さなクモがついていた。という証言がありまして古い文献を調べてみますと、「雪むかえ現象」というものがあるらしい。クモが気流にのって集団移動する。これが終わると雪が降るんですな。それでも、新聞なんかは面白半分にエンゼル・ヘアーということにしてしまった。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#4

s-荒井欣一(T氏)定例会を開催し、「宇宙機」を発行された、それから当然、事件の調査なども行われたわけでしょう?

(荒井)ええ、何かことあるごとに調査に行ったもんですよ。

(T氏)いちばん記憶に残っている事件をお聞かせ下さい。

(荒井)そうですね、いろいろありますが、千葉県の銚子で起こった金属箔の事件がありましたねえ。あれは昭和31年9月7日のことでした。ちょうど火星が地球に大接近するというので、うちの研究会でも各地の支部に観測指令を出したころです。当時は火星にUFOの基地があるという説がありましてね、2年目ごとにUFOウェーブがあって、これが火星の接近と関係あるんじゃないかというんです。それはともかくとして、この日の午後7時頃、銚子市一帯でUFOが目撃され、それと絶対に関係があるとは断言できませんが、同じ時刻に、やはり銚子一帯の数か所に空から謎の金属箔が降ってきたのです。銚子には会員の滝田さんというお医者さんで、日本天文学会にも所属してらっしゃる方がおられまして、この方から、どうも普通の金属箔じゃないというので送って来られたわけです。

(T氏)どれくらいの大きさのものだったんですか?

(荒井)長さ4~5センチ、幅1ミリ、厚さ10ミクロンという細かくうすいものでした。それでもかく現地へ会員の石津君を調査に派遣する一方、私は野沢さんという読売新聞の科学記者の紹介で、この金属箔を持って都立工業奨励館を訪れ分光分析を依頼したのです。そうすると主成分はアルミニウムであるのに、鉛が10%も混入しているという結果が出た。アルミニウムに対しては0.3%以上の鉛は混入できないはずで、これは東京工大の金属学教室に問い合わせて確認しました。そこで再度分析してもらうと、金属箔の裏にビニールのコーティングがしてあって、その中に鉛が粒状に黒く点在していることがわかったのですが、分析した技師は、ふつう鉛がビニールの中に混入している時は完全に溶けて透明になるはずであり、このような状態は見たこともない。また、なぜそういった分布状態にしたのか理由がさっぱりわからない、さらに極微量ではあるがバナジウムというような滅多にない元素がアルミに混入しているのもよくわからない、とこう言うんですよ。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#3

s-荒井欣一(T氏)第1回目の会合に北村さんは来られたのですか?

(荒井)ええ、おいでになりまして、当時では珍しい海外のUFO文献を見せていただきました。また、その頃、五反田の現在の埼玉銀行があるところに大映の映画がありまして、そこの支配人と大映プロデューサーの中代富士男さんという方も来られました。当時製作中だった「宇宙人東京にあらわる」という映画の裏話をいろいろ聞かせてもらいました。人数は近所の人を中心に30名ぐらいでしたが、意見発表も活発に行われ、こういう楽しい研究会はぜひ続けたい、年2回ぐらいはこういう集いをもち、それと同時にみんな意見を掲載する機関誌も発行しようということになりまして、私が編集を引き受けて、昭和31年の7月に「宇宙機」の第1号が誕生したわけです。

それからまもなく、この会のことが朝日新聞や週刊読売に紹介されましてね。たまたまその頃、国内でいくつも目撃事件があって、その記事といっしょにこういう研究会がある、そこにはこういう目撃報告もよせられるというので紹介してくれたのです。朝日なんか夕刊で一面をさきましたからね。どっと入会希望者がきましたよ。かくして、われわれは町の中の同好会から一挙に飛躍をせまられたのです。星新一さん、荒正人さん、三島由紀夫さん、いろんな有名人も入って来られました。

(T氏)柴野さんは、北村さんの紹介で、このどっと会員が増える前からおられました。私はあの人とはよくウマがあって結局、会の運営に当たっては、私たち二人が中心になったわけです。もっぱらSFの方で有名ですが、あの方が日本のUFO研究に果たした功績はたいへん立派なものです。

(T氏)斎藤守弘先生も会員だったとか?

(荒井)斎藤さんはまだ文理科大学の学生さんでした。やはり新聞で見て私の所に訪ねて来られたように思います。あの人はもうその頃からUFOや超常現象の資料をずいぶん集めておられて、しかもそれを大学ノートにぎっしりと書いてあるんですよ。あれには驚きましたね。これはいい知り合いができたと思いました。それで「宇宙機」にも書いていただくようになりましてね。それから昭和33年に「空飛ぶ円盤は宇宙機である」というテーマで会員から論文を募集したんですが、これにも河津薫つまりは斎藤守弘さんのペンネームだったのですが、彼が一等に入選されました。この論文は「空飛ぶ円盤研究シリーズ」と銘打った小冊子の第一弾として発行させてもらいました。

それから高梨純一さんもずいぶん資料をお持ちになっておられましてみんあビックリしたものです。彼はまもなく大阪で近代宇宙旅行協会(MSFA)という別の団体を結成されました。その後も高梨さんとは絶対的に協力し合うという関係で、これはどんな苦境にあっても、有名になっても同じです。

(T氏)しかしずいぶんそうそうたるメンバーが、荒井先生の研究会から巣立っていったわけですね。

(荒井)ええ、ただし、斎藤さんにしても高梨さんにしても、それまで独自にずいぶん資料を集めて研究されていたわけです。ただ、まあ、私がJFSAを結成したことによって、お互いの交流の場ができた、それが皆さんに一つの刺激となり、はげみになったということは言えるでしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#2

s-荒井欣一(T氏)なるほどよくわかりました。それで、いよいよ「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成しようということになったのは…?

(荒井)今申し上げましたように、昭和22年~23年頃からずっと興味はもっていましたが、研究会を結成したり機関誌を発行したりということになるのは、もっと後です。そのキッカケは、昭和29年に例のジョージ・アダムスキーの本が日本でも翻訳されましてね、私はちょうどその頃五反田の駅前で書店をやっておりました。私としては当時からこんな話は科学的な検証に耐えうるものではないし、こんなにハッキリ写真が撮れるものかと疑問に思いましたが、そのうちに、この本を買った人で、近所の関心のある人たちが店の中に集まって、ウソかマコトかという議論が続くようになった。大半は否定的でしたが、なかにはずいぶん熱心に支持する人もいて、やがて、こういった問題をひとつ公の場で論じてみたら面白かろうということになってきた。ただ、アダムスキーがウソかマコトかという特殊な問題だけじゃなしに、UFO全般について論じあおうじゃないかということでね。それで昭和30年7月に「空飛ぶ円盤研究会」、当時はまだ「日本」というのを頭にかぶせてなかったんですが、ともかくも名乗りを上げましてね、翌年2月4日に五反田の私の家の近くの水野食堂2階で正式に第1回目の会合をもったわけです。

(T氏)その半年間は準備期間だったわけですね。

(荒井)ええ、当時、北村小松さんという有名な流行作家が、文芸春秋とかいろんなところにUFOについて書いておられましたので、この方にも連絡を取りましてね、科学的な研究態度でUFOの研究会を組織して専門的にやってみたい、何かご援助いただけないでしょうか、ということで手紙を差し上げたりしました。そうしたら、君の意見に大賛成だ、大いにやりたまえ、全面的にバックアップするから、というような返事をいただきまして、たいへん気を強くしたわけです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「UFO問題は人類の将来を決定ずける」#1

s-荒井欣一(UFOと宇宙12月号・1978年から)
聞き手 本誌編集部 武田益尚(以下「T氏」)

(T氏)まず最初に、荒井先生がUFO問題に興味をもたれたキッカケ、そのあたりからお話しいただけますか?

(荒井)あざやかなキッカケ、たとえば実際にUFO目撃したとか、そういうのはないですよ。私は戦争中、山口県小月の陸軍航空隊、現在は海上自衛隊の航空基地になっていますが、そこの機上レーダー、つまり戦闘機や軽爆撃機に搭載する機上レーダーの整備基地におりました。そこで、敗戦後は「翼のない日本」ということになってしまいましたが、航空機や気象・天文観測ということに対してはズーッと興味を持ち続けていたわけです。そこへたまたま、UFOというよりも当時は「空飛ぶ円盤」ですよね、そのニュースが日本の新聞にも出たんです。

(T氏)戦後の空飛ぶ円盤騒ぎの発端となったといわれている、ケネス・アーノルドによるレイニヤ山上空の目撃が、日本でも報道されたのですか?

(荒井)一般のニュースのようにすぐ報道されたわけではなかったようですね。FENでは放送したそうですが。ただ、アーノルドの目撃が昭和22年6月24日ですが、早くも7月頃になると、アーノルド事件を含めて、アメリカに謎の物体現る、といった記事が出たし、8月頃になると、いったいあれは何だろうということで特集記事も組まれたように記憶しています。また、日本での目撃者も名乗りをあげはじめました。
そういうのを読んで、これは私の直観ですが、どうもこれは地球上の飛行機とは形態もちがうし飛び方もちがう、他の天体の知的生命があるいは飛ばしているのではなかろうか、と考えるようになった。そうなってくるとさらに興味を覚え、それとその頃、国際情勢がたいへん険悪になって、いつまた世界戦争が勃発するかわからんといった状況になってきた。こういう険悪な情勢を打開し、平和な状態にもどすにはどうしたらいいだろう。ここでもし地球に監視している第三者的存在のUFOというものの実在がはっきりすれば、たちどころに戦争はなくなるんじゃないか、そういう期待もあって、この円盤こそは、私たち人類の将来にとって貴重な存在ではないか、とこう考えるようになったわけです。

つまり私は、科学的観点ということはもちろんですが、政治的というか平和的な観点からも興味をもった。ですから、その後、「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成してからも「宇宙平和宣言」などの声明文を機会あるごとに発表しました。あの声明自体、時代の変化はあっても、基本的には今でも立派に通用するものだと思うし、そういう姿勢をもって今日までUFO問題に取り組んできたというのが私としてはひとつの大きな自負なんです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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テレビの取材がありました(宇宙海賊ゴージャスさん)

昨日、平成26年12月17日(水)に、宇宙海賊ゴージャスさんにUFOふれあい館を取材していただきました。福島放送「ドミソラ」の取材ということで、平成27年1月10日(土)の「ドミソラ」で放送されるそうです。みなさん御覧ください。

取材の中で、宇宙海賊ゴージャスさんとのやりとりを少しだけ暴露しちゃいます。

「宇宙海賊ゴージャスさんの実話」

〇 私に宇宙海賊ゴージャスさんが分からないところを質問しますと言われたので、私は分からないこともあるし、アドリブはききませんよと言ったところ、「みんなアドリブはききませんから大丈夫」と言っていました。(爆)

〇 二階の浴場のところも取材したのですが、二階では靴を脱がなくてはならないため、靴を脱いだとたん、ゴージャスさんが視野に入らなくなりました。高いヒールの靴履いているんです。(ごめんなさい)

〇 宇宙海賊ゴージャスさんに、UFOを目撃したことがあるかどうか聞いたところ、UFOは見たことないと言ってました。(カミングアウト)でも宇宙には詳しそうでしたよ。

s-ゴージャス色紙2また、色紙にサイン書いていただきました。ありがとうございました。

 

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