銚子市落下金属片、その後の調査

010701sonota388-trans金属片の実態調査はほぼ終わったが、その利用方法について確たる証言が得られなかった。いろいろな憶説が生れた。それを一つ一つ検証していかねばならなかった。

まず、当会の顧問であった東大の糸川博士にお伺いした。

資料とデータを持って博士の所にお伺いすると、この金属片はロケットの発射実験などに使用する金属片と非常に良く似ているとのことだった。

ビニール被覆アルミ箔は国内では生産されていないが、アメリカでは使用している、とのことだった。

そこで、念のためアメリカ大使館を訪ね、空軍参謀のモラール少佐を柴野氏と訪ねた。

同少佐の言によれば、9月9日には銚子市近辺で演習があったが、7日には実施していないとのことだった。

さらに、電波妨害用の金属片を落す時は、大小各種の金属片を落すが、一定の小片のみ落したのは解せない。(これは電波の波長をいろいろチェックするため)

さらに、極東空軍の方に廻して分析調査するとのことだった。

最後にアメリカ大使館の空軍武官室の山本氏にも資料を少し渡して調べて下さるようにお願いし、一週間後には返事をくれるということで大使館を辞した。

しかし、なかなか返事が来ないので再三催促し、ようやく4月12日振りに電話での回答を得た。

が、その回答は、単に「落下物はアメリカのものであった」という簡単なもので、当方の質問に対してはすべてノーコメントだった。

この後、クリスマスの時に使うものではないか、との話もあり、製造元の「京浜梱包」などに出向いて調べたが、まったく別の物でありガッカリした。

が、その後一年経ってから、「工業奨励館」の松下技師より、有力な推論を海外誌の記事中で発見した旨の電話があった。

そこには、「UFOからの落下物」として、これと良く似た金属片の写真が記事と共に掲載されていたという。

この件については別の機会に論じたいと思う。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月3日発行 発行人 荒井欣一 23頁

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現地に調査員派遣を決定

010701sonota376-trans折しも都の松下技師より、さらに検討を続けたいので金属片を分けて欲しい旨の電話があった。

しかし、当方には現物がほんの僅かしか残っていなかったので、現地調査を兼ねて、滝田氏から少し分けてもらうことにした。私が多忙だったため、調査を会員の一人に託すことにした。

その会員というのはI氏で、(現在は退職し、さる会社の社長をしている)にあったが、同氏は自発的に自身の興味も含めてさっそく日曜日を利用して日帰りで銚子市へ飛んでくれた。

同氏の詳細な報告書は「宇宙機」4号に掲載されているが、非常に詳しい調査報告で、滝田氏の報告を裏づけるものであった。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月3日発行 発行人 荒井欣一 19頁

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意外な結果がもたらされた

010701sonota373-trans10月29日、松下技師より二回目に提出した金属片について結果が解った旨の電話が入ったので、さっそく「工業奨励館」を訪れた。

松下氏はいろいろな角度から実験を繰り返した結果、概略すると次の三点が判明したという。

1 分光分析の結果、鉛が検出されたのは、アルミ箔に薄く付着していたビニール状の皮膜内に鉛が発見され、黒く粒状に多数点在しており、アルミの中にはなかった。

2 アルミ箔の片側には簡単な有機染料が塗布してあった。

3 ふつうビニールなどの中に鉛が混入する場合は、完全に溶けて透明になるはずであるし、ごく微量ではあるが高価なバナジウムやニッケルが検出されたが、これはあまり類例を見ない。

以上のような結果が出たが、同氏は何故、金属片にこの様な工作を講じなければならないのかと、またこの製品の利用方法についても疑問を投げかけていた。私はこれらの結果を踏まえて、再び多方面にわたって追跡の手を延ばすことになる。

一般の人は、レーダー関係のものではないかと思われるかもしれない。もちろんその点も考えたが、冒頭に触れたように、戦時中、レーダーの整備に携わっていた関係上、簡単にそれを認めるわけにはいかなかった。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月3日発行 発行人 荒井欣一 19頁

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ミステリアスな分析結果、鉛を含む

010701sonota378-trans私と柴野氏は、さっそく都立の「工業推奨館」を訪ねて、この金属片の分光分析を依頼した。

後日、同館の松下技師により同館の「検査証明書」によると、1~10パーセントの鉛が予想外に混入しているのを検出した。

通常、アルミと鉛は合金し難いものと思っていたので、アルミ箔の大手メーカー「日本軽金属」に問い合わせたところ、同社では「アルミ箔には鉛を入れない」という解答を得た。

そこで、さらに念を押すため、東京工大の金属学教室の中村正久氏を訪ねて確認したところ、多くの資料を参照した結果、アルミに対しては0.2パーセント以上の鉛を合金することは出来ないということであった。

その直後、同大学に定量分析をお願いしていた鑑定書が届いた。それには10.9パーセントの鉛が含まれていることが明記されていた。

がぜん、私たちは色めきだった。この結果を見るかぎり、この金属片の持つ意味は革命的なものを意味した。

すなわち、「地球上の物ではない?」ということを示していたからである。正に本物であろうかと、暫くし興奮のうちに次なる対策を考えていた。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月3日発行 発行人 荒井欣一 18頁

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謎の金属片を徹底追跡

010701sonota390-trans滝田氏から届いた金属片は、長さ四~五センチ、幅一ミリ、厚さ十ミクロンという細かいアルミ箔状のものであった。これらが九月八日の朝、銚子第四小学校の校庭の隅にまとまって落ちていたという。

UFOとの関係についてはどうかというと、前日の九月七日夜に、円盤らしき物体が鹿島灘から銚子上空を急速度で通過したのを、三十人以上が目撃していた。

また、それとは別に、半円形でダイダイ色の物体を目撃していた人もいた。その直後、市内近辺に金属片が降ってくるのを目撃した人もいるし、窓からフワフワ入ってくるのを見た人もいたということだった。

歯科医師だった滝田氏の所にこれらの金属片が持ち込まれた。同氏はさっそく塩酸、硫酸、硝酸で試験してみたが、はっきりした結論が得られなかったので、当会宛に現物を送り、調査依頼されたのである。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月3日発行 発行人 荒井欣一 18頁

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荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#10

s-荒井欣一(T氏)あの時は、JFSA同窓会とかで、星新一さんや柴野さんなど昔のメンバーもおいでになってましたね。ところで、荒井先生の見解ではどうなんしょう。ヒューマノイドというのは友好的なんでしょうか?

(荒井)私は友好的だと思いますが…。

(T氏)でもアダムスキーは容認されないでしょう?

(荒井)ええ、アダムスキーの話は科学的な検証に耐えないと思いますね。また、友好的といってもアダムスキーのいうような、我々を援助するとか、そういうおせっかいなものじゃなくて、いつか我々と何らかの交渉をもてる相手だという意味です。そういう将来のユメがあるから長い間やってるんですよ。侵略的ないとはないように思いますねえ。

(T氏)まあ侵略が目撃だとすればとっくにやってるはずですね。

(荒井)そうだね、アブダクションにしても、必ずもどしてくる、殺傷したという例はやはり少ないです。

私はこれから日本でも本格的なコンタクトが発生すると思うね。4年前に宇宙人対策委員会というのを作りまして、まだ実際には機能していないんですが、綱領も条文も草案はできているんですよ。それとコンタクト・マニュアルというのを作る必要があると思って、もう事例だけは200種類ほどまとめてあるんです。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#9

s-荒井欣一(T氏)現在、並木伸一郎さんの主宰する日本宇宙現象研究会(JSPS)の顧問を引き受けておられますが、並木さんのグループとの出会いはいつ頃ですか?

(荒井)ええ、再びあちらこちらにボツボツ書き始めまして、そのうち昭和47年、ちょうどUFO25周年の年がやってきたわけです。それで何か面白い企画をやってみようと思って、品川の公会堂でUFO講演会を開いたわけです。会としては休会したままですから、すべて何から何まで自分一人でやりました。まあ、女房が手伝ってくれましたし、当日の受付は会社の連中に応援を頼みましたがね。講師には高梨さん、南山さん、平野さん、柴野さんにもお願いして来てもらいました。この催しがたまたまNHKなんかで取り上げられ、朝日新聞の催し物案内の欄にも出ましてね、おかげさまで当日は押すな押すなの大騒ぎになりまして、公会堂からも消防署がうるさいので何とかしてくれなんていわれたぐらいです。

(T氏)この翌年ぐらいから、ちょっとUFOブームになりましたね。

(荒井)そうなんです。それまでも目撃事件があれば新聞の囲み記事程度にはなりましたが、やはり大きな話題として週刊誌なんかがとりあげるようになるのは、この後です。我田引水になるかもしれないけれど、確かにこの講演会なんかがひとつのキッカケになったといえます。まあ、こう言うと悪いですが、ユニバース出版がスタートしたのもこの後ですからね。

(T氏)当時としては画期的なイベントだったと言えますね。

(荒井)ええ、それでまたちょうどその頃、並木君なんかの若いグループもできかけてきた。かれらは平田さんとはつながりあったけれども、私とは面識がなかった。この講演会に並木君や志水君が来て初めて知り合ったわけです。志水君は予約を締め切った後にだったんですが、受付で強引にねばって入ったそうです。名刺には「会長」とかなんとか書いてあってビックリしましてね。。それから彼らが協力して日本宇宙現象研究会を作るんで、顧問になってくれというんで、まあ名前だけで何もできないよといって引き受けたわけです。

この翌々年の昭和49年にもやはり品川の公会堂で「ヒューマノイド講演会」を行いました。その後は一昨年、霞が関ビルの36階で日本で初めての「UFOフェスティバル」を12日間開催したり、もう、このあたりのことになると皆さんご存知でしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#8

s-荒井欣一(T氏)そして、再び活動を再開されたのはいつ頃ですか?

(荒井)そう、昭和35年に休会してから5年ほどはこれといって何もしなかった。それが昭和40年ごろかな、銀座通りを歩いていると、一緒に会をきりもりして頑張って下さった柴野拓美さんにバッタリ出会ったんですよ。「どうしてるんだ」と言うから、「いやあ、もうUFOは止めようかと思ってるんだ」というと、柴野さんは、そんなこと言うなよ、というんだ。今イエナに行ったら面白いUFOの本を見つめたからぜひ読みたまえというわけだ。それは「オフィシャルUFO」の特集版でした。なるほど買って読んでみると、この5年の間にずいぶんいろんな事件も起こっていて、たいへん面白かった。こちらは海外とも交流を断ってましたから、知らないニュースもずいぶんある。それで、こういうものをベースにして、まだ研究を続けている人や、これから始める人たちにも協力しようかと思いなおしましてね、再びいろんな資料や本を漁り始めたわけです。

すると、たまたま神戸の平田留三さんが高梨さんと分かれて日本UFO研究会というのを設立されまして、彼が機関誌に何か書いてくれと言ってきたんですよ。それでまあ、私は高梨さんに対して遠慮もあったんで、最初はペン・ネームで書き始めたんです。今ではお二人も仲良くつきあっておられますが、平田さんは近代宇宙旅行研究会の理事の一人で調査部長をしておられたのが、高梨さんの運営が独善的だというので、いわばケンカ別れして独自に一派を構えられたといういきさつがありましてね。私はどちらの肩をもつというわけではないんで、ペン・ネームで書き始めたわけですが、そのうちにお二人はそれぞれの機関誌上で相手の攻撃を始めたんで、これはイカンと思って、私が間に入りましてね、それで、どうせ私が書いてるってわかってきましたので、ペン・ネームをやめて、荒井欣一の名で「UFO事件の問題点を探る」というのを10回ばかり連載したわけです。それで、これがキッカケとなって、会は休会のままですが、個人として再び活動するようになったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#7

s-荒井欣一(荒井)また、昭和33年には、悪名高い警職法が国会に上程されました。あの法律によってUFOの研究まで規制される可能性があった。何かふしぎなことを研究して、世の中を不安に落し入れるものだ、というような誹謗もありましたしね。われわれはそれに対して、UFOの研究こそ人類の将来を決定づけるもっとも重要な問題だ、それを一片の法律によって葬り去られてはかなわないと思って反対声明を出しました。これは朝、毎、読の新聞にも報道されましたよ。もちろん多くの人が反対したので、わたしたちの声明がどれほどの効果があったかわかりませんが、ともかくあんな法案は廃案になってしまったわけです。

今のUFO研究団体というのは確かに科学的な研究は地道にやっているかもしれないけれど、こういう社会に問いかけるという姿勢が欠如しているように思います。

(T氏)それだけ先駆的に、熱心に活動されてきたのに、休会を余儀なくされたときは残念でしたでしょう。

(荒井)ええ、一時は千人近くいた会員がだんだん減りましてね、財政は大赤字になるし、体力的にも精神的にも疲れましてね、いったん集めた会費をお返しして休会にしたんです。

(T氏)やはり宇宙友好協会(CBA)問題が影を落とした。ということはありますか?

(荒井)CBAもそれなりに立派なところもあって、我々が持ってないような海外の資料も機関誌に掲載してました。それはよかったのですが、コンタクト・ストーリーを無批判に受け入れ地軸が傾くか宇宙連合が助けに来てくれるという騒動を経て、どんどんおかしな方向へ行ってしまいましてねえ、赤外線宇宙交信機なるものの発明者であるG・H・ウィリアムスンという妙なアメリカ人を彼らが招聘したときには、公開質問状をぶつけてみいたのですが、まったくナシのツブテ、これはこのままいくとUFO研究の危惧だというので、「UFOの研究の本道」という声明文を発表して、我々の立場を明確にしたのです。

まあしかし、こちらがある意味で固苦しいのに対して、あちらは面白いといえば面白いですからねえ、それにもう宗教的な熱狂性を帯びてましたから、こちらの会員でCBAに乗り換えた人もいるでしょうし、あるいは私たちが危惧したように、CBAの狂態を見て、しょせんUFOなんてというので脱落してしまった人もいたのかもしれません。

まあ、私も病気になるし、金もなくなちゃったし、休会といっても、ホントのこというと、円盤はもうこれで終わりにしようとまで思いました。CBA問題以外にも、安井清隆さんのコンタクトも問題なんかもあって、どうもみんなハッキリしないことばかりではないか、という絶望感にもとらわれましたからね。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#6

s-荒井欣一(T氏)マスコミはとかくそういうことが多いようですね。それからさきほども話題に出た「宇宙平和宣言」ですか、あれを始めとして、よく声明書のようなものを出されてますね。

(荒井)ええ、最初に申し上げましたように、科学的な追求ということはもちろんいちばんの基本であり、たいへん大事なことですが、やはりそれだけではダメだと私は思います。UFOの存在そのものが、人類の将来にとって、たいへん重大な意味をもっている、そういう観点にたつならば、当然、社会に問いかけるという姿勢が必要でしょうし、一般大衆にもアピールするUFO研究でなければならない。それで機会あるごとに、自分たちの見解を声明書という形で発表したわけです。

(T氏)「宇宙平和宣言」には、JFSA以外の団体も署名しておられますね。

(荒井)ええ、ちょうど昭和32年7月にJFSA発足2周年記念の講演会を行いまして、高梨さんはじめ、他の研究グループの方にも来ていただきましてね、ちょうどいい機会だということで私が音頭をとりまして、研究会相互の協力を目的とする全日本空飛ぶ円盤研究連合を発足させたわけです。それで、あの「宇宙平和宣言」は私が起草したものですが、JFSAだけではなく、他の皆さんにも呼びかけ共同声明の形にしたのです。

毎日新聞に東京天文台長の宮地政司さんが、「円盤は飛ばず」という一文を発表されたことがありましたが、これがメンゼル説のまったくの受け売りでしてね、我々は、メンゼル説だけではUFO問題は解決しませんよということで、会員のみなさんの発言を含めて、「それでも円盤は飛ぶ」という声明文を発表しました。

また、昭和32年、ソ連が原爆を積んだロケットを月に命中させるという噂が外電で広く報道されましたが、このときには「月ロケット発射に関する要望」という声明書をソ連大使に手渡しまして、月にUFO基地がある可能性を訴えました。で、この我々の声がフルシチョフに届いたためかどうかわかりませんが、あれほど騒がれたソ連の月ロケット計画は中止になったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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