UFOにかけるゆめ #2

010301nori016-trans文字づかい、漢字づかいは、すこしあらためて、しょうかいしたが、三島さんの、空とぶ円盤にたいするゆめが、よくつたわってくる文章だ。三島さんは、このあと、「美しい星」という、空とぶ円盤や宇宙人がとうじょうする小説も書いたが、ついに自身が円盤にめぐりあう機会はなかった。

1970(昭和45)年11月25日、東京の自衛隊市ヶ谷駐屯地にのりこみ、自衛隊員を人質にとって、はげしい演説をしたのち、割腹自殺をとげたのだ。

さて、わたしは、じぶんがみられなくても、みたという人に、あって話をきくことはできると、ニュースをききつけるたびに、あちこちとでかけていった。

けれども、ざんねんなことに、であうのは、あやしげなもくげき者や、人のあつまりばかりだった。

それが、かずおおくあるために、まじめなUFOの調査まで、へんな目でみられてしまう。

荒井さんたち、科学的な研究家は、空とぶ円盤などというものは、ありえない、とかんがえる人たちと、議論をかわすいっぽうで、でたらめな、円盤教の信者のような人にだまされてもいけない、といいつづけなければならなかった。(終わり)

参考文献  講談社 おはなし子ども新聞4 びっくりふしぎめぐり 日本児童文学者協会編 昭和57年7月10日 第1刷発行 65頁

Share Button

UFOにかけるゆめ #1

010301nori005-trans北川幸比古さんが書かれた「きみはUFOをしんじる?」から一部抜粋した内容です。

研究会が出発したことから、わたしはよく、荒井さんにお目にかかって、お話をきき、UFOの資料をみせてもらうようになった。いまは、まんがでいっぱいの少年雑誌に、よみもののページがあり、空とぶ円盤の記事を書くことがあったからだ。

おばけや、空とぶ円盤が大すきな、フランス文学者で詩人の平野威馬雄さん、大阪で「近代宇宙旅行協会」をつくり、ニュース誌「空とぶ円盤情報」を発行していた高梨純一さんとも、たびたびおあいした。

こうした研究家たちの最大のねがいは、

「一度でいいから、空とぶ円盤を、この目でみたい。」

ということだった。本や雑誌・新聞で、かずおおくの、もくげき者の報告をよんで、研究はしているもの、じぶんでは、まだ、そのチャンスにめぐまれていないのだ。

わたしも、みてみたくてたまらなかった。

荒井さんがだしていた会報「宇宙機」十三号(1957(昭和32)年7月)に、作家三島由紀夫さんが、こんなことを書いている。

「これから、いよいよ夏。空とぶ円盤のシーズンです。去年の夏は、熱海ホテルへ双眼鏡をもっていって、毎夜毎夜、いわゆるUFOが着陸しないものかと、心まちにのぞいていたましたが、ついに、もくげきの機会をえませんでした。…宇宙にかんするファンタスティックなきょうみは、少年時代、稲垣足穂氏の小説によって、やしなわれたもので…。」

稲垣足穂さんは、「一千一秒物語」「星を売る店」「第三半球物語」「ヰタ・マキニカリス」など、月や星をめぐる童話のような、たのしいお話を書いた作家。宇宙や飛行機にも、たいへんきょうみをもっていた。

「…もともと、科学的要素のないわたしですから、空とぶ円盤の実在かいなかの、むずかしい論議よりも、現代生活の一つの詩として理解します。

ことしの夏は、ハワイからアメリカ本土をまわる予定ですから、きっと円盤に遭遇するだろうと、いまから、むねおどらせています。南十字星なんかより、円盤のほうが、ずっとつよく、わたしの旅へのあこがれをさそうのであります。」(つづく)

参考文献  講談社 おはなし子ども新聞4 びっくりふしぎめぐり 日本児童文学者協会編 昭和57年7月10日 第1刷発行 65頁

Share Button

宇宙人キャラクター紹介パート10

U-タン2こんにちは!U-タンです。自己紹介します。

【どの星から来たのか】地球・いいのまち(宇宙人じゃないのか?www)

【特徴】身長1.6メートル、体重52㎏、好きな食べ物 キウイ、りんご、酒「千貫森」、りんごジュース

【特技】ダジャレを言う。とんちがすばらしい。

Share Button

日本空とぶ円盤研究会 #3

s-宇宙人では、なにをUFOとみまちがえるのだろう。

一つは、幻覚。ありもりないものを、みたようにおもいこむことが、人間にはあるようだ。

一つは、うそ。さわぎになるのがおもしろくて、うそをつく。そんな気はなくて、でも、でたらめをいう人もいる。

一つは、自然現象。星(金星がとくにおおい。)・流星・火球・鳥・虫などの、みまちがい。

一つは、人工の物体。風船・気球・飛行機・人工衛星などの、みまちがい。

一つは、光のいたずら。自動車のヘッドライトや灯台そのほか、さまざまな光が雲にうつったりしたものの、みまちがい。

「こうやっていって、あやしげなものをけしていき、五百けんがゼロになれば、、なぞがとけたことになるのですが、どうかんがえても正体がわからないものが、のこってしまう。アメリカ空軍のしらべでも、せつめいのつかない物体の、もくげき例が、おなじように、何パーセントは、のこったんですよ。」

と荒井さんはいう。

それに、ふしぎなものをみても、人にしらせたりしない人が、たくさんいるだとうことをかんがえると、UFOなどというものは、そんざいしない、とはいいきれなくなる。

では、その正体はなんなのだろう。

うわさのとおり、地球の外からくるものなのだろうか。どんなエネルギーをもとに、うごいているのだろう。それに、そもそも、なんのためにあらわれるのだろう。タイムマシンだという説もある。荒井さんが研究しなければならないことは、たくさんあった。(終わり)

参考文献  講談社 おはなし子ども新聞4 びっくりふしぎめぐり 日本児童文学者協会編 昭和57年7月10日 第1刷発行 61頁

Share Button

日本空とぶ円盤研究会 #2

uchuujin-2こうなると、空とぶ円盤が着陸して、またとびたったとか、円盤にのっている宇宙人をみたとか、円盤にのせてもらった、テレパシーで、円盤の搭乗員と話をした、などといった、おもしろ半分の記事が、雑誌にあらわれたりしはじめた。

空とぶ円盤の写真といわれるものも、あちこちに発表されたが、たいていは、トリック写真といって、それらしくつくったにせものだった。

「円盤は、宇宙のかなたからくるんだ。核兵器などをつくって、戦争をやめようとしない地球人に、警告をしにきたんだ。」

「もうすぐ、地球は破滅するんだって。それで、円盤が人類をすくいにきてくれるのさ。」などという、うわさがたったりもした。

そんなときに、UFOのことを、できるだけ科学的に調査し、研究しようとおもいたった人がいた。

荒井欣一さんだ。

荒井さんは、1923(大正12)年、東京生まれだから、そのころ、29さい。戦争中は陸軍航空隊にいて、レーダーをあつかうしごとをしていた。終戦後しばらく、荒井さんは大蔵省という役所につとめ、それから、書店をはじめた。

書店となれば、外国でおきたじけんの報告も、日本のものも、おもいのまま、すぐに目にすることができる。

荒井さんは、1955(昭和30)年、「日本空とぶ円盤研究会」という会をつくった。それから三年のあいだに、空とぶ円盤をみたという、くわしい報告が、手もとに五百けんあつまった。「こうしてわかったのは、UFOだとおもったものが、ほんとうは、そうではなかったという例がおおい、ということでした。」(つづく)

参考文献  講談社 おはなし子ども新聞4 びっくりふしぎめぐり 日本児童文学者協会編 昭和57年7月10日 第1刷発行 61頁

Share Button

日本空とぶ円盤研究会 #1

uchuujin-3北川幸比古さんが書かれた「きみはUFOをしんじる?」から一部抜粋した内容です。

日本では、1947(昭和22)年に、新聞に空とぶ円盤のニュースがのってから、しばらくのあいだは、UFOが話題になることはなかった。

1950(昭和25)年、朝鮮半島で戦争がおき、それとかんけいでもあるように、1952(昭和27)年、日本にも空とぶ円盤があらわれた、という記事が新聞にのった。

「空とぶ円盤 東京にあらわる」(8月2日 読売新聞)という見だしで、東京の世田谷区にすむ慶応義塾大学の学生、Sくん(19さい)が21時3分ごろ、自宅のちかくで、水色がかった光のかたまりが、ながい尾をひいて、南から北へととぶのをみた、という記事だった。大きさは、月の半分か、三分の一ぐらいだったという。

おなじ時刻に新宿で、また、東京駅のちかくにあった中央気象台(いまは気象庁)で、観測中の観測員がおなじものをみた。

「花火ではないし、流星にしては、大きすぎる。」

そのほかにも、もくげき者が何人もあらわれて、さわぎは大きくなった。

そのひと月まえ、アメリカの首都ワシントンの上空に、空とぶ円盤の大編隊があらわれて、レーダーにもとらえられ、ジェット機がついせきするというじけんが、おきたばかりのときだった。

新聞では、正体は流星か、火球とよばれる、流星のたいへんあかるいものだろう、と、なぞときをしていたが、円盤は、つづいて、京都に、佐渡に、九州に、四国にと、さまざまな場所にあらわれるようになった。(つづく)

参考文献  講談社 おはなし子ども新聞4 びっくりふしぎめぐり 日本児童文学者協会編 昭和57年7月10日 第1刷発行 61頁

Share Button

UFO研究会設立前後の私的状況

s-空飛ぶ円盤研究会荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

当時、私は研究会の構想を練ると同時に、古書、貸本のうち貸本という古来からの商売を新しい観点から組織し直すことを考えており、その年の夏「東京都読書普及商業組合」の常任理事で、機関誌の発行を任されていた。

したがって、この方面でも多忙を極め、国会や文部省などを廻って組合の説明やらで飛び廻っており、その年の十一月ようやく「街の図書館」と私が命名した会誌が出来上がった。

今、当時を振り返って見ると、UFO研究会設立の準備と商売との両面の忙しさによく耐え抜いたと思う。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 13頁

Share Button

機関誌「宇宙機」ついに創刊さる

s-空飛ぶ円盤研究会荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

前記のごとく「週刊読売」に当会が紹介されて以来、問合せが相次いだが、私はさっそく第一号(創刊号)の発行にとりかかった。

紙面は最近の新聞記事や、北村先生との座談会の記事と、森田たま女史や他の会員のUFO目撃例を載せると共に、糸川英夫氏の「動力は光子ロケットか?」を月刊誌「知性」から、洋画家、三岸節子さんの「フランスにも着陸している」を「小説公園」から引用し、「空飛ぶ円盤研究会の目的」を私が書いた。

その趣旨を要約すると「海外ではUFO研究の著書が多数出ているのに、日本では本格的研究機関もなく、一般の人は非科学的な現象として見ている。この考え方に反対する為に、現代の優れた宇宙科学によってその真偽を検討し、宇宙の神秘に挑戦するとともに地球人の覚醒の時代が来ている…」と訴えている。

この機会に研究会の名称も「日本空飛ぶ円盤研究会」(Japan Flying Saucer Research Association=略称J・F・S・A)と改称し、新たに会員名簿を整理し、作成した。

第一次の会員名簿には、検察事務官の石津氏や後日入会された「小松製作所」の顧問の遠藤氏や「日本心霊科学協会」理事の金沢市、三島由紀夫氏の本の特別装丁をした佐々木氏、日本体育大学教授の千原氏など、懐かしい人たちばかりの名前が並んでいる。

「宇宙機」創刊号は、設立一年目の7月1日に発行された。装丁はタブロイド版二ページでガリ版刷りであった。

当時の日記を見るとその月の9日の「朝日新聞」朝刊の学芸欄「素描」で「宇宙機」が紹介されたので、会員も組織も思いがけないほど拡大していった。

8月4日には、コロンビア映画「空飛ぶ円盤地球を襲撃す」に会員約五十名を招待。

その後、「日刊スポーツ」紙主催の座談会が催され、北村、柴野、安藤、金沢、荒井などの諸氏が出席。翌日、その記事が写真も含めて大きく同紙に掲載された。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 14頁

Share Button

機関誌「宇宙機」の創刊準備 #2

s-空飛ぶ円盤研究会機関誌の名称「宇宙機」は、私の独断で決めたのだが、UFOは宇宙から飛来している可能性が強かったのと、その行動、型、大きさなどから飛行機の「機」を採用した。戦時中の戦闘機のイメージが残っていたのかもしれない。

原稿のガリを切ってもらったのは古くからの友人、大逸敬二郎氏に無理にお願いした。後に、鹿児島から私を頼って上京された会員の坂本邁氏(先年他界)に変った。

その後4月1日、「読売新聞」が「日曜の朝食に送る話題」として、「空飛ぶ円盤は惑星から発射された?」という記事を紙面に大きく取り上げた。

それは、黄田駐英公使が親友である防衛庁航空自衛隊幕僚長の上村健太郎氏に宛てた手紙の内容を紹介したものである。

手紙の内容は「英、米の専門家の間では、空飛ぶ円盤は実在し、太陽系以外の処から来ており、日本ではどの程度研究されているのか」というものであった。

その手紙を見た上村幕僚長は、もっと詳しい情報を送ってほしいとの問い合わせを出した。

折り返しすぐに、黄田公使から次のような返事がきた。

「円盤について英国の学者たちは真面目に研究しているが、それが実在し、地球以外の星から来ていると大体意見が一致している様だ…」

これは政府関係者の話だけに注目に価する記事だった。

そのすぐ後の5月9日夜、東京都内の江東、北区の人たちが円盤型で青白い光を放つとか、グリーンの火の玉を見たとか、同時刻頃堀船町一帯のテレビの画面がズレたとか等々の報告が新聞社に届いたが、東京天文台では軽く流星と判断していた。

その直後、これらの目撃例や森田たま女史の鎌倉山での目撃例などがまとめて「週刊読売」(6/3)に掲載された。

この時、初めて当研究会の存在が紹介され、そのお蔭で全国から問合せや入会の申込みが殺到した。

これを機に機関誌編集の機運が高まってきた。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 13頁

Share Button

機関誌「宇宙機」の創刊準備 #1

s-空飛ぶ円盤研究会荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

北村先生との合意を実現するため、早期に機関誌の発行準備を始め、そのタイミングを狙っていた。

しかし、前述の様に超多忙が続き、予定がつきかねていたが、幸い「街の図書館」の編集を翌年四月に解放されたことで、機関誌の発行にめどがたち、ようやく準備体制が出来てきた。

設立前に北村先生を囲んでの座談会が予定どおり開かれた。昭和31年2月4日、北村先生を招いて、五反田の友人宅、「水野食堂」の二階の広間を拝借して行われた。

参会者は約三十名。特にこの日は「五反田大映」(現在埼玉銀行の所)の支配人と、日本初の宇宙映画「宇宙人東京に現わる」の監督、中代富士男氏の特別参加をお願いして、技術面やストーリーにまつわる内輪話などの興味深い話を聞かせてもらった。

また北村先生からは、ご自身が持参された海外のUFO書籍の内容説明があったり、最近の海外情勢などについての興味深い話を聞くと共に、北村先生を中心に自由討論が行われた。

集まった人たちの中には初めて聞く最近のUFO情勢に驚きの顔をした人もいて、だいぶ洗脳されたように見受けられ、座談会は成功裡のうちに終了した。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 13頁

Share Button