翌58年の1月、星さんの提唱で「編集委員会」と称する月例会が発足したが、これはむしろわたしのために雑誌の赤字を埋めてくれる醵金組織みたいなもので、同人宅のまわり持ちでスタートした毎月の例会は、主として常連十数人の楽しい雑誌会に終始した。のちに、小松左京さんから、「日本SFの卵が純粋培養された時代」と位置づけられた時期である。この例会の第五回にはじめて顔を出した野田昌弘さん(当時学習院大生)の印象記(65年、第四回日本SF大会プログラムブック所載)の一部を、以下に引用してみよう。
━次の日曜日、胸をどきどきさせながら、西武線のなんとかという駅を降りて、イイヅカさんの家をさがした。今にして思うと、光瀬龍氏の家だったわけである。
ずばぬけて機知にとんだおしゃべりをするすごくいかしたおじさんが星新一氏、アメリカで有名なSF作家たちとじかに会ってきた矢野徹氏、ふたこと目にはマザーマシンとフロイトがとびだす眼鏡をかけたメル・ファラーみたいな葉山速雄氏。ぼくは隅っこにきちんと坐っておとなしくしていた。
間もなくあらわれた柴野氏は、たしかに白いダブルの背広を着ていて、すごくイキなオジサンにみえたが、話しているとどうやら今、ぼくと同じ電車できて同じ道を通ってきたらしいのだ。なのに途中でぜんぜんあわなかったのを、氏はこともなげにいった。
「あ、それじゃどっちかが別の空間を通ってきたんですよ。」ぼくはそれをきいたとたん、胸があつくなった。ウウム、いたな!ついにみつけたぞ!ミュータントとミュータントいやエスパーとエスパーが生まれて初めて出会ったら、こんな気持ちになるのではなかろうか。七面倒な理屈なんか不要、全部ツーカーで話が通じあう相手を、ぼくははじめてみつけだのだ━
ところで、この会合の少し前、何人かが集まって会場案内のハガキを手分けして書いているとき、星さんが、道筋を示す地図の矢印に「タイタン五世邸」と書きそえた。それにはちょっと説明が要る。宇宙塵10号(58年3月)に発表された光瀬さんのSF処女作の題名が「タイタン六世」で、これは政治コンピューターの反乱を描いたものだった。その光瀬さんは当時まだ独身で、つまり、会合の場所は、そのお父上のお宅だったわけである。
そしてこの「タイタン六世」が、その夏に行われた第一回掲載作品コンテスト投票で第一席を占めたのだ。(これにも説明が必要だろう。このときの第二席は星新一「セキストラ」、第三席が同じく星新一「ボッコちゃん」だった。おそるべき顔ぶれといおうか、日本SF事始を物語るエピソードのひとつである)。
こうして光瀬さんの創作活動がはじまり、ちょうどそのお勤めさきがわたしの家の近くだったことから、やはり近くにおられた今日泊亜蘭さんをまじえて個人的なおつきあいも深まっていき、のちに65年5月には「柴野拓美をはけます会」を平井和正さんと協力して開いてくださるなど、いろいろお世話になるのだが、残念ながら紙数が尽きたようだ。
参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史