機関誌「宇宙機」の創刊準備 #1

s-空飛ぶ円盤研究会荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

北村先生との合意を実現するため、早期に機関誌の発行準備を始め、そのタイミングを狙っていた。

しかし、前述の様に超多忙が続き、予定がつきかねていたが、幸い「街の図書館」の編集を翌年四月に解放されたことで、機関誌の発行にめどがたち、ようやく準備体制が出来てきた。

設立前に北村先生を囲んでの座談会が予定どおり開かれた。昭和31年2月4日、北村先生を招いて、五反田の友人宅、「水野食堂」の二階の広間を拝借して行われた。

参会者は約三十名。特にこの日は「五反田大映」(現在埼玉銀行の所)の支配人と、日本初の宇宙映画「宇宙人東京に現わる」の監督、中代富士男氏の特別参加をお願いして、技術面やストーリーにまつわる内輪話などの興味深い話を聞かせてもらった。

また北村先生からは、ご自身が持参された海外のUFO書籍の内容説明があったり、最近の海外情勢などについての興味深い話を聞くと共に、北村先生を中心に自由討論が行われた。

集まった人たちの中には初めて聞く最近のUFO情勢に驚きの顔をした人もいて、だいぶ洗脳されたように見受けられ、座談会は成功裡のうちに終了した。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 13頁

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イン石より速度が遅い(福島)

10月26日夕、福島県上空を北から東に向かって発行物体が通過し、福島民友新聞社、福島地方気象台などには「UFOではないか」「飛行機が墜落したのでは」などの問い合わせが殺到した。

目撃者の福島市本内Aさんの話によれば「午後5時40分ごろ、北から東へ向かって光る物体が流れて行った。アセチレンガスのような赤っぽい尾を引いていた」また梁川中学校職員は「国見町上空から霊山町上空に向け、帯状の光を放ちながら約1分間流れて行った」と話している。ほかに保原町、白河市など県内各地で目撃者が相次いだ。

福島天文台同好会の観測、調査によると「北海道から南東に向かって約50~70㎞の上空を通過し、茨城県東方海上約200㎞地点の上空で燃えつきたようだ。イン石に比べると落下速度が極めて遅く、数個に分裂しているところから人工衛星が大気圏に突入し、燃え上がったものではないか」という。

航空自衛隊第27警戒群(滝根町)のレーダーでは、この飛行物体は確認されなかった。同隊の話によると、レーダーに映るのは金属物質だけで、イン石の場合は反応しないという。(1977年10月27日付、福島民友)

参考文献 UFOと宇宙 ユニバース出版社 昭和53年1月1日発行通巻第30号

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空飛ぶ円盤研究会の設立に踏み切る

s-空飛ぶ円盤研究会荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

1950年に大蔵省印刷局を辞めた私は、山手線五反田駅前で本屋を開業しており、懇意なお客さんとたびたび店頭でUFO論を闘わせていた。

しかし、来客ばかりの特定の範囲の人たちだけの討論だけでは、空飛ぶ円盤の真相究明はとても出来ないと思い、関心者を広く集めた上で、「研究会の設立」が急務と考え、いろいろと設立のプランを練った。

その時、まっ先に頭に浮かんだのは、当時、S・F作家でユーモア作家として知られていた北村小松氏に相談する事であった。

私はさっそく北村先生宛に、研究会の設立計画を詳しく書いた手紙を送ったところ、すぐに協力を約束して下さるとの返事をいただいた。

北村先生とは、この時まで一面識もない間柄であったが、快くご相談にのって下さり、研究会が正式に発足する頃には、北村先生のおとりなしで徳川夢声氏、石黒敬七氏、中正夫氏、糸川英夫氏などを顧問に推薦していただき、大変恐縮に思った次第であった。

北村先生のお宅をお訪ねした時は、奥様からご歓待を受けると共に、先生が当時購入されていたUFO書籍十数冊をお見せいただいた。このときあつかましくも翌1956年2月の会合へのご出席もお願いしてしまった。

その際、北村先生と合意した主な事柄は左記の通りである。

1 科学的原則は重視するが、時として非現実的科学論にとらわれない。

2 非科学的、宗教的UFO論は極力排除すること。

3 現時点では否定論、肯定論もできるだけ公平に扱う事。

4 できだけ多くの情報を収集し、正しい情報は速やかに会員に伝える事。

5 営利主義的な団体とならず、すべての責任は荒井が負う事。

6 会員相互の意見を尊重して、できだけ分裂、対決を避ける事。

以上の様な趣旨を体して設立の準備を始めた。そして研究会の設立日は、すでにお客様の中のUFOファン入会希望を初めて受け付けた日である「七月一日」とした。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 12頁

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UFO研究会の重鎮 荒井欣一さん #4

s-荒井欣一氏その子どもの思春期に、一番影響を与えてくれた恩人は?の問いに、おもしろい答えが返ってきた。ピンクレディーだという。

「UFOっていう歌があったでしょう。あれは大きかった。それまでUFOの意味ひとつ説明するのに、大変だったから。

それにあの曲が出たのは1977年。僕にとってもUFOに興味を持ち出してから、ちょうど三十周年目の節目だったんだよね。

これはひとつ、何かやらなくてはいかん、との思いでUFO年鑑という本を一冊、自費出版で作った。これを一カ月で作ろうとしたもんだから、大変だったんだ。

会社のコピー機とかマイクロ写真を使ったりしてね。どんどん資料を作っていったわけ。社長も公認だったし。

社員もまあ、荒井さんならしょうがないやって(笑)。何がなんでも作り上げてやろうという執念があったんだよね。当時は2千円で出したけど、今はプレミアがついて七千円ぐらいするよ」

その執念の結晶を「特別だ」ということでいただいてしまった。ザラッとした触り心地。手作りの重みが伝わってくる。

この「UFO年鑑」にも見うけられるが、荒井さんの口からは再三再四「ロマン」という言葉がもれる。

ロマンというセリフが似合う人なんか、そういるもんじゃない。それもこれも、昭和22年から現在まで、足かけ四十四年間という長い長い歳月がなせるワザなのだろうか?

ちなみに荒井さん、今の今までUFOを目撃したことは、ただの一度もないという。

だからロマンなんだよ…うん」荒井さんの机の引きだしには今もカメラとハンディ・ビデオがたえず用意されている。(辻本祐司)「STLUDA(創刊号)」平成3年6月号旺文社発行より再録(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 2頁

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UFO研究会の重鎮 荒井欣一さん #3

s-荒井欣一氏「勇気だね。一番最初に駈け出す勇気。一部の科学者なんか、笑いものにしてたんだから。UFOとか、あんなものは絶対に存在するはずない、と。

UFOは二十世紀の神話だ、とかなんだかんだとね。非常に僕らの意見に対しては冷たかった。だけど僕としてはね、世界のありとあらゆる情報を収集した結果、集めれば集めるほど、確信したんだ。

どーも空飛ぶ円盤というのは、地球人の飛行物体じゃない、とね。

じゃあ、一体何のために飛んでくるのか?どんなエネルギーを推進力にしているのか?目的はなんなのか?

まあ、そんなことをね、メカ的に知る必要があるんじゃないか、地球人は知らなきゃいけないんじゃないかと思うようになったんだ」

荒井さんは自分のことを「リアリスティック・ロマンチスト」だという。

「そう。UFOの本当の目的を知りたいからこそ、情報は冷静に、科学的に分析しなくちゃいけないんだ。UFOの写真を写しましたって僕のところに持ち込んでくる人は多いんだけど、その九十五%は勘違いなんだよね

例えば赤い光が動く、自分のところに迫ってきた。これは大体飛行機の着陸灯を勘違いしている場合が多い。着陸灯の強い光で、本体部分が見えなくなっているんだよね。

それと多いのが、人工衛星とUFOの見間違い。だから僕は言ってやるんだ。

少なくとも五百メートル以内のUFO写真じゃなきゃ、認めないと。それぐらい厳しく分析しなくちゃUFOの価値が落ちちゃうんだよ。

テレビでもUFOが見えた、UFOが見えたと某局のアナウンサーがはしゃいでだけど、あれは木星なんだって。木星は絶対に動かないとか言ってるけど、二十分か三十分もすれば地球自体が自転してるんだから、こちらから見れば木星も立派に動くんだよね。

あーいう人たちがいるから、ちょっと知識のある人達はUFOを信じなくなっちゃうんだよ。あんなもんバカらしいってそうなることが、一番恐いんだ」

荒井さんは怒っていた。大切に育ててきた子どもを、目の前で蹴とばされそうになっている。そんな時の親の心情に似ているかもしれない。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 2頁

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UFO研究会の重鎮 荒井欣一さん #2

s-荒井欣一氏「ん~、でも僕らはね、UFOは確実に存在する、それをみんなにわかってもらいたい。

この信念だけで情報集めてたからね…。

根本哲学といってもいい。それと、宇宙平和だね。僕らは当時、ソ連の首相だったフルシチョフに親書を送ったことがあるんだよね。

それはどういうことかというと、その時代のソ連の科学力は相当上をいっていた。それを誇示しようというのが、ソ連にはあったんだよね。

突然マスコミを通じて月蝕の晩、ソ連の核弾頭付ロケットを月にぶち当てるというようなことを言いだしたんだよね。もう、大騒ぎになってね、僕らUFO研究者としては…。

もしも月にロケットなんか打ちこんだら、地球人は危険な動物だと宇宙人に思われかねない。

そうなったら、地球攻撃、なんてこともあるんだから。可能性がゼロということは決してない。

我々が防衛するすべは何もないんだ。それで、そんなことは絶対にやめるべきだという親書を、ソ連大使館を通じて送ってもらったんだよね。

そしたらね、その親書が効を奏したのか、それっきり新聞にその問題はのらなくなったの。パッタリ出なくなった。「しながわ」っていう品川区の立派な会報にものってるよ。UFO研究会が地球を救ったって(笑)」

UFOの話をする時、荒井さんの眼は光る。光るといってもギラギラじゃない。キラキラ文章にするのにも、ちょっとてれ臭い。まあ、それほど純粋な光を発している。

だからこそ、UFO研究一番目という困難極まりない道も、くぐってこれたのかもしれない。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 2頁

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UFO研究会の重鎮 荒井欣一さん #1

s-荒井欣一氏荒井欣一氏の著書「UFOこそわがロマン」に、「STLUDA(創刊号)」平成3年6月旺文社発行より再録された内容です。

今でこそUFOを語ることは認知されているが、昔はそれこそ「奇人変人扱いだった」という。昭和22年6月24日。某新聞に「アーノルド氏、ワシントン州カスケード山脈のレイニア山上空に、円盤型をした九個の飛行物体を発見」の記事が掲載されていた。

「この事件が世界で初めてのUFOというか、その当時は円盤だな。円盤事件と騒がれた記事だったんだ。

大体の人は見間違いぐらいにしか思わなかったけど、よ~く記事を見ると、飛び方がピョン、ピョンという風に出ている。戦争中、僕は空軍にいたからわかるけれど、そんな性能の飛行機をつくれる国なんてどこにもない。

これはちょっとおかしいぞ、ということでこの問題に対して興味を持った」

1955年、荒井さん自身が会長となり、日本初の全国的UFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足。

荒井さんのライブラリーには、どこから集められてきたのだろうか?アメリカの機密文書をはじめ、UFO関連の本、ビデオ、写真などが所狭しと置かれている。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 2頁

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研究会設立の機、熟す #2

s-荒井欣一これは1952年3月と12月、それに、1953年の1月に発生した事件で、この件についてコメントを求められた「東京天文台」は、通常なら否定的見解を示すはずなのに、「今度の場合、目撃時間といい、光の模様や色といい、天文学的現象ではなさそうだ。かといってその正体は、と聞かれても写真を撮ったり、詳しいデータがない限りなんとも判定することはできない」としている。

この事件はUFOがレーダーでも補足されており、私にとって非常に興味深いものだった。

さらにUFOに関心を持つ初心者にとって、非常に興味とショックを与える、ジョージ・アダムスキーとデスモンド・レスリーの共著「空飛ぶ円盤着陸す」(邦題・空飛ぶ円盤実見記)という本が「高文社」から発刊されてベストセラーとなった。

この本には非常に鮮明な空飛ぶ円盤の写真が掲載されていたことや、さらにアダムスキーによる金星人との想像を絶する会見記に魅了されてか、その体験を信じて、いまだにこのアダムスキー信奉する人たちが多くいる。

しかし、この会見記の内容たるや、科学的な実証性に乏しく、とても信用し難いものだった。

その後、英国から有力な実在論が伝えられてきた。

それは同国の高官である元空軍戦闘機部隊司令官、空軍大将C・T・ダウンディング卿の、「空飛ぶ円盤は実在し、他の天体から飛来する」という主張で、円盤現象のいろいろな事態を科学的かつ、冷静に推論したもので、当時としては、画期的な意見であった。その他、米国ではドナルド・キーホー元海軍少佐の「空飛ぶ円盤は他の惑星から飛来する」という仮説や、ドイツの世界的なロケット学者ヘルマン・オーベルト博士の「円盤=宇宙機説」の発表など、世界は大きく動き始めてきた。そして英国では、UFOの専門誌「フライング・ソーサー・レビュー」も刊行された。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 12頁

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研究会設立の機、熟す #1

s-荒井欣一荒井欣一さんの書籍「UFOこそわがロマン」に書かれた「J・F・S・Aと空飛ぶ円盤研究史」日本空飛ぶ円盤研究会=J・F・S・A」誕生秘話!の内容の一部です。

1947年に発生したケネス・アーノルド事件以来今日まで、空飛ぶ円盤=UFOへの一般大衆の興味と関心は、マスコミも含めて、日を追うごとに、また年を追うごとに高まってきており、科学者、天文学者などの否定論も、現実無視の政略的な匂いさえも感じさせている。(後にハッキリするが…)

私は戦時中、山口県下関市近くの小月の陸軍航空隊の防衛戦闘部隊(飛行第四戦隊)の主力複式戦闘機屠竜(キー45)部隊の将校として、きわめてハイテクな機上搭載レーダー(タキー2)の装備にたずさわっていた関係上、戦後間もなく発生した空飛ぶ円盤問題については、当初より興味をもち、関係資料を読みあさっていた。

1950年頃から、敗戦後の虚脱状態から立ち上がりはじめた日本だが、と同時に、空飛ぶ円盤に関するマスコミ記事も多くなってきた。また、円盤についての詳しい情報も入手出来るようになってきた。

まだ多くの人々はその実在について疑いを抱いていたが、その反面、研究者たちは終始黙々と資料を収集し、公然と発表こそしなかったが、強くその実在について、確信しはじめていた。

私がもっとも勇気づけられたのは1953年2月5日付けの「朝日新聞」が報じた米軍パイロットたちの数度にわたるUFOの目撃だった。

北海道など北日本上空および地上から米軍人たちが、空飛ぶ円盤を目撃したというこの記事を私は等閑視できなかった。しかも目撃者は将校ばかりという願ってもない事件だった。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 12頁

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UFOに魅せられて #2

s-荒井欣一1957年7月、「全日本空飛ぶ円盤研究連合」を結成、各団体を結集し、同年十月、連合より兼ねて念願の「宇宙平和宣言」発表。その後、宮地東京天文台長に対する反論として、「それでも円盤は飛ぶ」等々、社会啓蒙と研究会の立場を鮮明にする各種声明文(ソ連首相に対する「月ロケット発射に関する要望」など)を発表することになった。

またこの間、「空飛ぶ円盤シリーズ(未完)の発行や「朝日新聞社」の「空飛ぶ円盤なんでも号」の発行に協力するなど、円盤啓蒙運動を積極的に展開しつつ、機関誌「宇宙機」の発行を続けていたが、1960年6月、私が病気、周囲の状況の変化により、暫らくの休会を宣言した。しかし、その間もUFO資料の収集だけは怠らなかった。

その後、十二年の休会状態を経て、「J・F・S・A」が再び活動を再開したのは、1972年6月「空飛ぶ円盤二十五周年記念講演会」からである。これを契機に、会は、私を中心に活動を再開、各地でUFO写真展、講演会等を開催した。

1979年には自費で自宅兼オフィスビル(「光星ビル」)を建設し、オーナーとなり、その後、同ビル五階に多年にわたり収集したUFO関係の資料等を展示する世界唯一の「UFOライブラリー」を開設。館長となった私は、同ライブラリーを無料で開放し、多くの研究者や後輩たちの指導に当たってきた。

1998年、地域再開発のため、(後に、「UFO・ET博物館」と改称)をやむなく閉鎖し、長年住み慣れた東京品川区五反田から大田区に移転した。

著書は、平野威馬雄氏との共著「アポロと空飛ぶ円盤」、志水一夫氏との共著「UFOと異星人の謎」をはじめ数冊あるが、自費出版した1977年度版「UFO年鑑」は、資料の豊富さにおいては他の追随を許さないものと自負している。

今回、喜寿を契機に再び自費出版による「UFOこのわがロマン」を刊行することにあたり、現在までの長い間、家族ならびに友人諸兄姉のご協力に深く感謝する次第である。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史 2000年11月発行 1頁

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