テレビ東京「私の昭和史」(3)宇宙人のデマについて

010301nori003-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)目撃例の中にはウソだとかインチキという例もあるそうですね。

(荒井)そういうものもありますね。一つ残酷な話なのですが、宇宙人を捕まえたという話がありましてね。

(三国)それはどこの国の話ですか。

(荒井)アメリカの話ですが、捕まえたという宇宙人を悪戯な若者二人がマスコミに公開したことがあるのです。というのは猿の尻尾を切ったり、歯を抜いたりして、これが宇宙人だと世の中に発表したんです。

(三国)この件はちょっとやり過ぎですが、こういう例は多かれ少なかれどこにもあると思うのですが、いろいろな情報が入り混じる中で、荒井さんは全部信じてしまうのか、又は何か信じてはいるけれども疑っている矛盾みたいなものがあるのでしょうか。

(荒井)そうですね。UFOの目撃例というのは非常に多いのですが、実際に説明不能というのは5~6パーセントで、全部が全部報告を信じているわけではないです。全てを振るいにかけてその中でどうしても説明がつかないものを未確認飛行物体としています。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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テレビ東京「私の昭和史」(2)目撃例について

010301nori010-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)UFOについてはいろいろ見聞していますが、UFOを目撃したという報告が方々ありますね。

(荒井)全世界いたるところですね。

(三国)これを大体五つのタイプに分類できると思いますが、一つは他の物体と見間違える。二つは自然現象を見間違える。三つは幻覚若しくは妄想から生じる。四つは全くのウソ。五つ目が説明不能というものなのですが、これは五番目の説明不能というものが、未確認飛行物体の可能性があるということですか。

(荒井)これは如何なる現代科学を以てしても説明できないという物体が飛んでいるということです。

(三国)一番有力な実例というのはなんですか。

(荒井)それはブラジル海軍が発表した有名なトリニダート島写真というのがあるんです。この島は大西洋の小さな島ですが、そこで気象観測中の人達が目撃したものです。土星型の物体が非常に低空で飛行し、島の岩山を一周して飛び去ってしまいました。その時プロのカメラマンが6枚の写真を撮り、これがその時の一枚です。

(三国)ブラジル海軍としてはこれを確認しているのですか。

(荒井)空飛ぶ円盤とは言いませんが、何か解らない物体が飛行していたことは事実であると言っています。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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テレビ東京「私の昭和史」(1)会員について

010301nori018-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)今日のゲストは荒井欣一さんです。荒井さんは日本におけるUFO研究の草分けであり、「日本空飛ぶ円盤研究会」の代表として長い間この円盤の真相を追ってきた方です。荒井さんはそもそもUFOに興味をお持ちになったきっかけはなんですか。

(荒井)軍隊にいたときは、航空部隊におりまして、レーダーの整備をしていた関係上、航空関係に非常に興味を持っていたので、UFOは一体どんな飛行原理で飛んでいるのか興味が湧きました。終戦後本屋を開業していまして、UFO事件の本をよく読みました。中には結構面白い本もあり、興味は益々膨らんでいきました。

(三国)日本で翻訳されていないものまでお読みになりましたか。

(荒井)日本では翻訳されていないものがかなり沢山ありますが、全部という程ではないですが、ある程度の本には目を通しています。

(三国)昭和30年の7月ですが、日本空飛ぶ円盤研究会を組織されたのは、どんな顔ぶれでしたか。

(荒井)最初は私の店のお客様を中心にやっていたのですが、その後、北村小松さんですとか、黒沼健さんとか、星新一さんとか有名人の方が次第に入会され、三島由紀夫さんなんかも非常に熱心な会員でした。

(三国)でもこういう正体の解らない未知の物体を調べるとき、仮説の立て方として三つあると思うんですが、一つには存在する、存在しない、どちらとも言えないという三つだと思います。

(荒井)そうですね。研究会としてはあまり存在するという事にこだわり過ぎると、否定論者から批判が出ますので、そういった意見も尊重して実在論とかみ合わせるというような方法で理論的に追及していこうと思っていました。しかし、会員の80パーセントくらいは実在論者だったと思っていたし、その線で機関誌の発行や運営をしてきました。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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CBA(宇宙友好協会)元幹部来館

010701sonota373-trans3月のはじめ、或る人の紹介でCBAの元幹部AK氏が会社の人と見えられた。話を聞いてみると、北海道平取町に建設されたかの有名な、高さ8メートルもあるオペリスクの設計を担当した方で、現在は五反田に(株)ライフデザインの社長をしておられた。1964年の「CBA特報」によれば、ハヨビラ建設隊員の本部員に名を連ねている人だった。

松村氏の消息を尋ねたが、答えはなかった。ただもう「松村氏の任務は終わった。」の一言のみであった。

参考文献 UFOライブラリー来訪者等交遊録(1)(発行日等は不明です。)

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CBA(宇宙友好協会)事件の松村氏と初接触

010701sonota371-trans日本空飛ぶ円盤研究会とCBAの関係はどのようなものだったのでしょうか。

松村雄亮氏とCBA問題が起こったのは、まだまだ先の事だが、我々が初期の活動を開始した頃、読売新聞の京浜版9月9日付で松村氏の事が紹介されていた。氏は火星大接近の翌日夜、円盤の国際観測が世界各地で行われ、これに初参加した日本人グループとして紹介されていた。氏は当時横浜市磯子に住んでおり、26才20名のグループを組織していた。との記事。

私は早速連絡をとり、同じUFO研究家仲間だったら手を携えて行こうと思ったところ、柴野氏が一応手紙を出してみるとの事だったので、私の旨を伝えてもらった。ところが当方の意に反して彼からの返事はなかなか強烈な返事だったので、最初からシコリを残してしまった。

彼からの返事には、読売の記事はミスプリントで、0を一つなくされたもので、我々は200名の会員を擁しており、出来たばかりの研究会とは提携できないというものだった。これは一種の強がりだと感じた。柴野氏は直に反論の手紙を送ったが、それに対しては何の反論もなかった。(後略)

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会活動秘話(3)(発行日等は不明です。)

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フランスにも着陸している(洋画家 三岸節子さん)

010301nori019-trans「洋画家 三岸節子さんの場合」

1954年の秋ごろから春にかけて、南仏アンチープの海岸に降りた機体が発光体みたいなもので、降りてもすぐ垂直に上り、自由自在でそれがすごいスピードで、乗員は長靴をはき、背が低く、1メートルちょっとくらいで3人位いたそうで、子供がそばによったら、言葉ではないけれど、そばによっちゃ危ないと言い、修繕するために降り立ったらしい。

フランスでは厚い空飛ぶ円盤の本が出ていて、写真が沢山出ており、フランスの新聞では水爆や原爆を地球の人間が発見して、これは大変危険だから、それを止めさせようと警告に火星人が来ているのだろうと書いてあった。

フランスの北方にも円盤から降りて中から人間らしきものが出てきて線路を上を歩いているのを目撃した人が書いた話が大きく出ていた。(抄)

小説公園 1930年12月号より

参考文献 空飛ぶ円盤研究会機関誌宇宙機創刊号(1956年7月1日付け)

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朝日新聞「素描」(昭和31年7月9日)

010301nori001-trans日本空飛ぶ円盤研究会の会員が増えたとされるマスコミが取り上げたものの一つです。

「空飛ぶ円盤研究会」という会が、これほど創立された。本部は東京品川区五反田1の268。世話役は荒井欣一氏。機関紙「宇宙機」創刊号は今月1日に発行された。

この機関誌「私は円盤をみた」という欄には、作家森田たまさん、画家三岸節子さんたちの話が転載されている。

創立総会をかねた第1回研究会では、北村小松氏が諸外国の情勢を、中代富士男氏が企画中の第二回宇宙映画の構想を、それぞれ熱心に語って大変盛会だった。

空飛ぶ円盤の研究は外国ではとても盛んで円盤を主題にした映画「空飛ぶ円盤地球に襲来」、「禁断の遊星」、「宇宙戦争・新版」の三つを制作、来月以降に日本でも封切の予定といわれる。

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会の設立「JFSA誕生秘話」(発行日等は不明です。)

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科学派か、信仰派か(SF作家柴野拓美氏の場合)パート2

(続き)

わたしもどちらかといえばその部類で、もともと興味の中心は架空のSF的な発想の展開にあり、UFOそのものに対しては一歩しりぞいて、「もしUFOが異星の宇宙船だったらこの科学技術は?また乗っている異星人の故郷は?」といったアプローチの方法をとっていた。

1957年の春、はじめてSFのグループを結成したときには、荒井さんの許可をもらって月例会の席上で仲間を集めさせてもらったが、同好の士が多いことにあらためて驚かされた。こうして発足したSF専門の同人誌「宇宙塵」からは、のちに一時期日本のSF界を支えた作家たちの大半がデビューしたので、「JFSA」は、いわば日本SFのためにも貴重な土壌を提供してくれたことになる。

だが考えてみると、こんなふうにUFOとSFが同居していたというのはなんとも不思議な話である。純粋なUFO研究家の立場からすれば、「自分たちがやっているのはSFなどというつくりごとではなく、まじめな真理探究なのだ。」と言いたいだろうし、SFの側からみれば、「われわれフィクションを楽しんでいるのであって、円盤信者などと一緒にされては迷惑だ。」ということになるのだろう。

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会発足秘話 知られざるニッポンUFO探求史(画像の内容とは異なります。)

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科学派か、信仰派か(SF作家柴野拓美氏の場合)パート1

010301nori009-trans日本空飛ぶ円盤研究会の会員だった柴野拓美氏が研究会との関わり合いや思い出を語っています。

「SF作家 柴野拓美氏の場合」

今から振り返ってみると、そのころUFOの研究に集まっていた人間模様の多彩さは驚くばかりで、あるいはUFOそのものよりもこっちのほうが興味津々かもしれない。当時の厳しい世情のなかで、未知の宇宙や超科学の世界に思いを馳せた人々、というのがまあ包括的な捉え方だろうか。とくに荒井さんのようにUFOそのものに追求の対象を絞っているのが、いわば正統派の研究会ということになるが、そのなかでは、彼のように正統不偏の立場をつらぬいている人物は、むしろ、希少価値だったような気がする。

一方にはひたすら「科学性」を標榜して証拠集めとその独自の分析に執念を燃やす人々がいるかと思うと、他方には新興宗教そこのけ円盤信仰をふりかざす一派があり、それぞれに融合集散していた。

全般的にみると、時の推移とともに科学派は衰退し、信仰派の人々が勢いを増してきたようだが、これはむしろ当然の帰趨というべきだろう。宗教組織は「法難」によって強化されていくからである。こうした両翼のあいだを埋めていたのが、量的にはむしろ多数派の、関心をUFOに絞らない、「好事家」という人々だった。(続く)

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会発足秘話 知られざるニッポンUFO探求史(画像の内容と異なります。)

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「円盤を警戒せよ」について(星新一氏)

010301nori016-trans空飛ぶ円盤研究会の会員だったSF作家星新一氏が「宇宙機」に寄稿する経緯が書かれています。

「星新一氏の場合」

いまでこそUFOばやりだが昔は空飛ぶ円盤と呼んでいた。新聞の外電欄などで関心は持っていたが、その研究会が日本に出来たことを新聞で読み、私が入会したのは、昭和31年の秋ごろだったと思う。そこで柴野拓美さんと知り合い、翌年のSF同人誌「宇宙塵」の発刊となったのである。

円盤研究会の会員は、少しおかしなのもいたが、大部分は意外とまともな人たちで、純粋な好奇心の持ち主が多かった。会長の荒井さんはまじめで温厚な性格で、そのため時たまの会合は、なかなか楽しいものとなった。私もたのまれるまま、会の機関誌の「宇宙機」に2回ほど文章を書いた。(中略)

先日、研究会創立20年のパーティーがあり、昔の仲間と久しぶりに会った時、私は言った。「UFOじゃなくて、空飛ぶ円盤と呼ばないと感じ出ませんね。」うなずく人が多かった。

いずれにせよ30歳前後のころ、私が円盤とかなり深くかかわりのあったのは事実だし、いまにして思うとそれが人生の一つの分岐点でもあったのである。

参考文献 空飛ぶ円盤研究会資料(スクラップブック)

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