- モアイ石 … イースター島の「モアイ」を想わせる人面巨石
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人面岩と言っても過言ではない、人の首から上の部分が、別の岩によりかかっている状態で存在しています。
「これはまさにイースター島にあるモアイの石に似ている」と言うことから、昭和末期頃から「モアイ石」と呼ぶようになりました。 以前は「大石」と呼んでいて、子どもたちの格好の遊び場だったそうです。モアイ石の頭部にあたる部分には星座らしき穴が数ケ所あるのが確認できます。
モアイ石のある山林は、大桂寺の所有となっていて、大桂寺が現在の場所(大久保字普門)に移る以前は、このモアイ石のある山裾にあったと言われています。
また、モアイ石の近くには一段低い凹みがありますが、そこは大桂寺の和尚が修行をした場所と言われています。
モアイ石からの眺めは素晴らしく、眼下には大久保地区の町並み、北に千貫森、西には吾妻連峰の山並みという眺望が広がります。 春から秋にかけては周囲の自然林や草花、また野鳥や動物との出会いなど楽しさも倍増します。
- うなり石 … 以前は主要な生活道路であった六道にある悲恋伝説を持つ石
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青木地区の字松保地内に、通称六道と呼ばれている、6本の道路が交差しているところがあります。近年道路整備が進み、
六道が交差する昔の面影はありませんが、少し山の方に入れば、そのままの往時を偲ぶことができます。
六道から千貫森の方に入った山道のそばに丸い形の石があります。それが「うなり石」です。
昔、人も羨む若い恋人同志がおりました。娘は器量よしで素直でしたが、目が少し不自由でした。それを気にした若者は、 娘を裏切って他の女性と結婚してしまったのです。心の痛手は娘を狂わせ、楽しかった日々を思い出すかのように、 昼も夜も山道の石に戯れていたといいます。心傷んだ娘の声は獣の捻り声のように恐ろしく、あるときは悲しく聞こえたといいます。 やがて人知れず娘はこの世を去りました。しかし、その声は消えることなく、石の回りから聞こえていたそうです。 それ以来、花嫁姿でここを通った女性は必ず離縁になり、縁談のために仲人が通ると、その縁談は失敗し実を結ばなかったといいます。
それ以来、この悲恋を伝える「うなり石」は、縁起事の場合、避けて通るようになったと言うことです。 - 青木大石 … 千貫森モアイ石とレイラインを成すミステリアスな巨石
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青木小学校前の交差点から東へ約300m程行ったところの分岐を右折してさらに200m程のところに大きな石があります。それが「青木大石」です。
よく見ると表面に割られたような痕跡が残っています。
調べてみると、以前石垣に使われたと言うことがわかりました。石の上は平坦で割られていなければ、もっと広かったのは確かで、 昔子供の格好の遊び場であったということがうなずけます。
さらに、民家の裏側や大石の真上の山中にも巨石があり、この三つの巨石が方位を示しているかのように、南北に直線に並んでいるのは偶然でしょうか。 しかも青木大石は千貫森とモアイ石を結ぶレイライン上のポイントの一つになっているなど、何かミステリアスな雰囲気がただよう巨石でもあります。 - 赤岩 … 大久保の字赤岩山地内に稲荷神社が鎮座し、通称「赤岩稲荷」と親しまれる
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その昔、八幡太郎義家が木幡山(二本松市)から石を投げて、落ちたところがここ赤岩山だそうです。その石が、落下して岩に当ったときに大きな火花が出て、
あたり一面の岩が赤く輝いたことから「赤岩」と呼ぶようになったと言われています。この赤岩稲荷がある赤岩山一帯は、巨石が重なってできていると
言っても過言ではなく、地下深くは巨大な岩盤になっているのが確認できます。
昭和37年から43年まで、町道の維持管理に敷き砂利を生産するために、町営の砕石場が置かれました。連日、 岩を爆破して採石した場所が現在もむき出しになっており、岩盤の様子がよくわかります。
例えば、大きなお皿の上に大小の団子を山のように積み重ね、それに上から「きな粉」を多量に振りかけたとします。 小さな団子は隠れて大きな団子だけが露出します。そのような感じの状態が赤岩山の構造と思われます。
胎内くぐりができる巨石や、人為的に重ねたような石碑状の巨石が頂上付近にそびえ、赤岩の象徴と言えます。また、 稲荷神社のお仕えとも言える狐が住むには、格好の場所で、方々に狐の出入りする穴が確認できます。
赤岩神社の祭礼は、2月の初午の日に行われますが、昔は花嫁姿の参詣者が多く、「花嫁祭り」とも言われ、境内には出店も出て、 近郷近在からの参詣者でにぎわったそうです。当時は結婚式に招待された親戚が、新婚夫婦を自宅に招待する「嫁呼び」という風習があり、 この地区では赤岩神社のお祭りの日に「嫁呼び」をしたため、祭礼には花嫁が多く集まるようになったのだそうです。
また、稲荷神社は安産の神様としても信仰があり、花嫁になった人達は安産を祈願して参拝するようになり、その風習が広まったのだろうと言われています。
境内には観音堂もあり、十一面観音が安置されています。
神社の鳥居手前に重ね餅のような巨石があり、鳥居より91段の石段を登りつめたところに観音堂、さらに43段登ったところに赤岩稲荷神社があります。 - 留石 … 1674年の総検地の際に この名が付けられたという
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米沢藩の60余年にわたる長い支配が終わり、信達両郡が幕府直結領となって寛文4年から代官の支配となりました。福島代官の国領半兵衛は、
寛文11年(1671)3月から延宝2年(1674)10月までかけて信達両郡の総検地(土地の面積を計り税金等の算定基準にする。現在の国土調査)を行いました。
小手郷内(現在の月舘町、川俣町、飯野町)村々の検地は秋山村(川俣町秋山)より始まり、大窪村(大久保)の字久保山にあった大石の所で検地が終了したので、
ここで「留る」と言うことからこの石を「留石」と呼ぶようになったというのが留石の由来です。
また、最近の調査で、この場所が館跡ではないかと言うことが分かってきました。隣接する山林にも昔の遺構が残っています。見通しの良い場所で、 北側には鼠舘や越中舘、南は苅松田城、西には向舘、南西に針木戸舘などが見渡せます。何か事あれば「のろし」などで連絡がとれる距離でもあり、 当時が偲ばれます。
留石は現在公園化され、桜の名所として春から秋にかけて多くの人の憩いの場として親しまれています。 - くらべ石 … 持参した棒と長さが合えば願い事が叶うという魔法の石
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「苦しい時の神だのみ」と言う言葉があります。
人は誰でも、努力しでもなかなか解決の目鼻がつかない悩みごとや、心配ごとに出合う時があります。そんな時は何かにすがりたくなるものです。 それが神様であったり仏様であったりするわけですが…。
大久保地区に、願いごとのかなう少し変わった石があります。それが「くらべ石」で、旧川俣街道沿いのJR「竹の花」バス停近くの路肩にあります。 今ではほとんど振り返る人もなく忘れ去られていますが、大正初年頃までは願いがかなう石として崇められてきました。
純真な当時の人々は、この石の前に座り「早く病気が治るように」「あの人と夫婦になりたい」「お金が授かるように」等、もろもろの願いを託し、 持参した「棒切れ」を「くらべ石」に当てて、石の高さと幅を比べ、長さがピッタリ合えば願いごとは必ずかなうと信じていたそうです。 近郷近在は勿論、遠方からの信者も多く、いつも石の回りには沢山の棒切れが散在していたと言うことです。
- 枕石 … 千貫森を作った巨人が枕に使ったという伝説の石
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昔々「大突坊」と言う大男がおりました。大男は「たんがら」(竹編の背負篭)に土をどっさり入れてやって来て、その士を空けました。
すると、尖った山ができ、それが千貫森となりました。「たんがら」に少し土が残っていたので隣に空けると一貫森ができました。
そして仕事に疲れた大突坊は両足を広げ、横になって寝てしまいました。
その時枕にした石が「枕石」(明治字枕石地内)です。右の足は「芦の亦」(川俣町秋山字芦招田)へ、 右の足は「足の又」(川俣町西福沢足の又)へ伸ばして寝ておりましたが、眠りほうけた大突坊は小便を漏らしてしまいました。 その漏らした小便が、又から川のように流れて行った所に「川又」(昔はこの文字・川俣町)の地ができた…と言う昔話が残っています。
「枕石」の根本には石塔の文殊尊があります。特に文殊尊はこの地区の子供たちの信仰の場で、毎年春休みになると子供たちだけの文殊講が行われました。 1.5m程の障子紙に「南無文殊尊」と書き、下に子供の名前を書いて旗を仕立て、その旗を先頭に供え物をして、勉強ができますようにとお願いしたのです。 この文殊講は昭和30年頃まで続けられていました。「枕石」は旧明治小学校より南へ500m程のところにあります。
- ばくち石 … 岩穴に隠れて「ばくち」を打ったという謂われを持つ巨石
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飯野堰堤公園の道路を二本松市方面に向かい、堰堤公園入口から焼く800mの道路沿い左手山側の上方に大きな石が見えます。
それが「ばくち石」です。この場所は山の斜面が大変厳しく、山頂から阿武隈川へ急斜面が一気に落ち込んでいるところで、
山中を歩くには困難な場所です。昔の街道は尾根すじと阿武隈川沿いにあり、この地方の主要道路として使われていました。
この両街道からはずれた、尾根と川岸の中間程の場所にある「ばくち石」は、林の中に隠れて見えにくく、 大きな声を出しでも誰にも気付かれないことから、いつしか「ばくち(賭け事)」に興じる人々のたまり場となったのでしょう。 「ばくち石」には三角形の空洞になった岩穴があって、その中は人が10人程入れる広さがあり、風雨をしのぐのに格好の場所です。 このようなことから「ばくち石」と呼ぶようになったと言われます。
- 銚子不動尊 … 阿武隈川を望む不動尊が彫られている巨石
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東北電力蓬莱発電所飯野堰堤の上流約1kmの阿武隈川に面した場所に、不動尊が刻まれた高さ2m程の自然石があります。明和元年(1764)建立とありますが、作者は不明です。
この不動尊は土地の名をとって「新田(しんでん)不動」と呼ばれてこの地域の人々に信仰されてきました。
この地点は飯野町と二本松市の境を流れる小川が阿武隈川に注ぐ河口にあたり、飯野堰堤完成(昭和13年11月)以後は、地形が一変し銚子の口のような形になったので、
この場所を「銚子の口」と呼ぶようになったと言われます。
このことから不動尊も「銚子不動尊」と呼ばれるようになりました。昔は阿武隈川沿いに道路が通じていてこの河口に滝があったので、「滝見不動」とも呼ばれていました。
幕末の頃まで近くに行者が住んで、修行をしていたと伝えられています。現在は飯野堰堤から二本松市まで道路が拓かれ、桜並木がこの不動尊まで続いて、 飯野町地区の代表的な観光地の一つになっています。 - 方位石 … 南北を指し示すかのように巨石が並ぶ方位石
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国道114号線沿いの青木地区と立子山地区の境界に「一円寺」という寺があります。その境内に、包丁で切られたような平面を持つ石があり、
石組みが北と南を指し示していることから「方位石」と呼ばれています。
千貫森周辺は地磁気が非常に強く、昔から良質の砂鉄が得られたと言われています。その証に方位石付近の旧家の床の間は砂鉄を塗ったものが多く、 また方位石から1kmほど北にある鉄津塚(カナゴヅカ)遺跡では昭和58年の福島大学佐藤教授による調査により、 「はぐち」(ふいごの口)や溶鉄が見つかったことで、製鉄が行われいたことが確認されました。
「磁気」と「方位石」、何か因果関係がありそうな… この巨石を前に、そんなサイエンスミステリーな推理をするのも楽しいものです。 - くじら石 … 一円寺の開祖日尊上人と深い関わりを持つユニークな形の石
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石の形がマッコウ鯨に似ていることから「くじら石」と呼ばれています。土地の人は「説法石」と呼んでいます。
一円寺を閉山した日尊上人が、その昔仏教を広主め東国を回っていた際、しばらくこの地(立子山)に留まり、樹下の石の上で毎日大法を演説し、 村民に教えを説いていました。多くの人々が上人の徳風を聞きつけ説法に参列するうちに、しだいに上人の法義を信頼し、改宗する人も増え、 やがて上人の檀家が協力して、遂に一宇を建立し一円寺と号しました。
その後は寺も檀家もますます繁栄し、このような日蓮上人との深い結び付きと偉大な因縁と大きな利益に感謝して門下の僧侶や檀家の人々は、 この説法石に詣でて香して華をささげました。しかし星霜暦歳、時が流れ寺院や境内は茅や薮に被われ荒れ果ててしまいました。 そこで当時の院信乗院が同志の先輩と共に日尊上人の恩沢を慕って上人が説法した霊石跡を後世に伝えるため標石を建てたのが 「くじら石」の上にある石碑だということです。
- 蓬莱岩 … 仙人が住むという伝説の蓬莱山の名前を持つ阿武隈渓谷の天然記念物
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阿武隈川(全長239km)の、永年に渡る浸食作用により、作りあげられた全国でもまれな風景の峡谷が約9kmほど続きます。その中で約4kmの区域が
福島県の名勝及び天然記念物に指定されています。(昭和28年10月1目指定)
花崗岩地帯の浸食風景としては、長野県木曽川流域の寝覚床や山梨県西山梨中巨摩の二郡を流れる荒川の昇仙峡などがありますが、 阿武隈峡谷は甌穴(おうけつ:急流の河床岩石面に生じる鍋状の穴)の数が非常に多いこと、芸術品とも思われる甌穴が各所に見られ、 さらに、転石の雄大なことにおいて特異な地位をしめ、蛇骨岩、逢莱岩、体内くぐり岩、地獄釜、 鮎滝(湖上する鮎の群れが急流を跳越える景観によって付けられた名称)などは、その代表的なものであります。 中でも特に有名なのが蓬莱岩で川の流れの中ほどに巨大な岩山がつき出ています。
中腹から頂上にかけて形の良い松が生え茂り、川の水位が少し上がれば、いかにも阿武隈川に宝船が浮かんでいるように見えます。 現在は駐車場や遊歩道が整備され、散策が十分に楽しめます。
また、近くには鮎滝渡船場跡が往時の状態がそのまま残っていて、昭和12年に文部省指定史跡となっています。 さらに、鮎滝の東岸、渡船場を見下ろす小高い山の上には鮎滝観音堂があり、小手三十三観音の十五番札所となっていて、 堂内には聖観音菩薩像が安置されています。平安時代初期(弘仁810年~貞観860年)に造らた仏像で、福島県の重要文化財に指定(昭和28年)されています。 そのほか蓬莱岩の真上(立子山春田地内)の山腹には薬師堂があり、薬師堂からも真下に蓬莱岩を眺めることができます。
※ この文章は飯野町(現福島市)発行の冊子、「飯野町巨石探訪」の内容を抜粋したものです。