荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#5

s-荒井欣一(荒井)それから日本軽金属と東洋金属へ行って見せたのですが「こんなものは作ってないし、また用途も不明」という返事でした。顧問をお願いしておりました糸川英夫博士のところへもって行くと、米軍の気象観測用ロケットに使うものではないだろうかとおっしゃるので、気象庁の観測部高層課へ行ったのですが、こんなものを気象観測に使うことはないという返事でした。

そこで、もうひとつの可能性として米軍がレーダーの防空演習に使ったんではないかと思いまして、アメリカ大使館に空軍武官のラモール少佐を柴野拓美さんといっしょに訪ねたわけです。すると、9月9日には銚子付近で演習があったが、問題の金属箔の落ちた7日にはやってない、またレーダー妨害用の金属箔を落とすが、これ一種類だけがかたまって落ちていたというのは解せない、またこのような箔を扱ったことはあまりないというんです。そしてともかく調べてみるから預かりたいというのです。それで、ともかく預けて帰ったんだが、1週間たっても1か月たっても返事がない。たまりかねて、再び乗り込みましたところ、「あれは米軍のものだった」という一点張りで返そうとしない。じゃあ何に使ったのかというと一切ノーコメントだったんです。

(T氏)へえー、それは奇怪ですね。結局、それっきり金属箔はもどってこなかったんですか?

(荒井)ええ、それで私はこの10年間というもの、あの金属片がてっきりなくなったものと思って悔やんでいたんですが、最近になってよく探すと少し残ってましてね。やはり警戒して全部は持って行かなかったんですな。もう一度あらためて分析してみるつもりです。

(T氏)新事実が分かりましたらぜひ本誌に発表して下さいよ。

(荒井)ええ、そうしましょう。それから、エンゼル・ヘアー事件というのもあったなあ。最近の本を見ると、エンゼル・ヘアーの写真として、ボクらが撮影したのがのっているけれども、あれはエンゼル・ヘアーじゃないんですよ。最近、山形県の学校の先生からエンゼル・ヘアーらしきものが落ちてきたので調べてほしいという電話が入ったのです。まあ、はじめのうちはみんな興奮しましてね。ところが現地調査してみると、はしに小さなクモがついていた。という証言がありまして古い文献を調べてみますと、「雪むかえ現象」というものがあるらしい。クモが気流にのって集団移動する。これが終わると雪が降るんですな。それでも、新聞なんかは面白半分にエンゼル・ヘアーということにしてしまった。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#4

s-荒井欣一(T氏)定例会を開催し、「宇宙機」を発行された、それから当然、事件の調査なども行われたわけでしょう?

(荒井)ええ、何かことあるごとに調査に行ったもんですよ。

(T氏)いちばん記憶に残っている事件をお聞かせ下さい。

(荒井)そうですね、いろいろありますが、千葉県の銚子で起こった金属箔の事件がありましたねえ。あれは昭和31年9月7日のことでした。ちょうど火星が地球に大接近するというので、うちの研究会でも各地の支部に観測指令を出したころです。当時は火星にUFOの基地があるという説がありましてね、2年目ごとにUFOウェーブがあって、これが火星の接近と関係あるんじゃないかというんです。それはともかくとして、この日の午後7時頃、銚子市一帯でUFOが目撃され、それと絶対に関係があるとは断言できませんが、同じ時刻に、やはり銚子一帯の数か所に空から謎の金属箔が降ってきたのです。銚子には会員の滝田さんというお医者さんで、日本天文学会にも所属してらっしゃる方がおられまして、この方から、どうも普通の金属箔じゃないというので送って来られたわけです。

(T氏)どれくらいの大きさのものだったんですか?

(荒井)長さ4~5センチ、幅1ミリ、厚さ10ミクロンという細かくうすいものでした。それでもかく現地へ会員の石津君を調査に派遣する一方、私は野沢さんという読売新聞の科学記者の紹介で、この金属箔を持って都立工業奨励館を訪れ分光分析を依頼したのです。そうすると主成分はアルミニウムであるのに、鉛が10%も混入しているという結果が出た。アルミニウムに対しては0.3%以上の鉛は混入できないはずで、これは東京工大の金属学教室に問い合わせて確認しました。そこで再度分析してもらうと、金属箔の裏にビニールのコーティングがしてあって、その中に鉛が粒状に黒く点在していることがわかったのですが、分析した技師は、ふつう鉛がビニールの中に混入している時は完全に溶けて透明になるはずであり、このような状態は見たこともない。また、なぜそういった分布状態にしたのか理由がさっぱりわからない、さらに極微量ではあるがバナジウムというような滅多にない元素がアルミに混入しているのもよくわからない、とこう言うんですよ。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#3

s-荒井欣一(T氏)第1回目の会合に北村さんは来られたのですか?

(荒井)ええ、おいでになりまして、当時では珍しい海外のUFO文献を見せていただきました。また、その頃、五反田の現在の埼玉銀行があるところに大映の映画がありまして、そこの支配人と大映プロデューサーの中代富士男さんという方も来られました。当時製作中だった「宇宙人東京にあらわる」という映画の裏話をいろいろ聞かせてもらいました。人数は近所の人を中心に30名ぐらいでしたが、意見発表も活発に行われ、こういう楽しい研究会はぜひ続けたい、年2回ぐらいはこういう集いをもち、それと同時にみんな意見を掲載する機関誌も発行しようということになりまして、私が編集を引き受けて、昭和31年の7月に「宇宙機」の第1号が誕生したわけです。

それからまもなく、この会のことが朝日新聞や週刊読売に紹介されましてね。たまたまその頃、国内でいくつも目撃事件があって、その記事といっしょにこういう研究会がある、そこにはこういう目撃報告もよせられるというので紹介してくれたのです。朝日なんか夕刊で一面をさきましたからね。どっと入会希望者がきましたよ。かくして、われわれは町の中の同好会から一挙に飛躍をせまられたのです。星新一さん、荒正人さん、三島由紀夫さん、いろんな有名人も入って来られました。

(T氏)柴野さんは、北村さんの紹介で、このどっと会員が増える前からおられました。私はあの人とはよくウマがあって結局、会の運営に当たっては、私たち二人が中心になったわけです。もっぱらSFの方で有名ですが、あの方が日本のUFO研究に果たした功績はたいへん立派なものです。

(T氏)斎藤守弘先生も会員だったとか?

(荒井)斎藤さんはまだ文理科大学の学生さんでした。やはり新聞で見て私の所に訪ねて来られたように思います。あの人はもうその頃からUFOや超常現象の資料をずいぶん集めておられて、しかもそれを大学ノートにぎっしりと書いてあるんですよ。あれには驚きましたね。これはいい知り合いができたと思いました。それで「宇宙機」にも書いていただくようになりましてね。それから昭和33年に「空飛ぶ円盤は宇宙機である」というテーマで会員から論文を募集したんですが、これにも河津薫つまりは斎藤守弘さんのペンネームだったのですが、彼が一等に入選されました。この論文は「空飛ぶ円盤研究シリーズ」と銘打った小冊子の第一弾として発行させてもらいました。

それから高梨純一さんもずいぶん資料をお持ちになっておられましてみんあビックリしたものです。彼はまもなく大阪で近代宇宙旅行協会(MSFA)という別の団体を結成されました。その後も高梨さんとは絶対的に協力し合うという関係で、これはどんな苦境にあっても、有名になっても同じです。

(T氏)しかしずいぶんそうそうたるメンバーが、荒井先生の研究会から巣立っていったわけですね。

(荒井)ええ、ただし、斎藤さんにしても高梨さんにしても、それまで独自にずいぶん資料を集めて研究されていたわけです。ただ、まあ、私がJFSAを結成したことによって、お互いの交流の場ができた、それが皆さんに一つの刺激となり、はげみになったということは言えるでしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#2

s-荒井欣一(T氏)なるほどよくわかりました。それで、いよいよ「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成しようということになったのは…?

(荒井)今申し上げましたように、昭和22年~23年頃からずっと興味はもっていましたが、研究会を結成したり機関誌を発行したりということになるのは、もっと後です。そのキッカケは、昭和29年に例のジョージ・アダムスキーの本が日本でも翻訳されましてね、私はちょうどその頃五反田の駅前で書店をやっておりました。私としては当時からこんな話は科学的な検証に耐えうるものではないし、こんなにハッキリ写真が撮れるものかと疑問に思いましたが、そのうちに、この本を買った人で、近所の関心のある人たちが店の中に集まって、ウソかマコトかという議論が続くようになった。大半は否定的でしたが、なかにはずいぶん熱心に支持する人もいて、やがて、こういった問題をひとつ公の場で論じてみたら面白かろうということになってきた。ただ、アダムスキーがウソかマコトかという特殊な問題だけじゃなしに、UFO全般について論じあおうじゃないかということでね。それで昭和30年7月に「空飛ぶ円盤研究会」、当時はまだ「日本」というのを頭にかぶせてなかったんですが、ともかくも名乗りを上げましてね、翌年2月4日に五反田の私の家の近くの水野食堂2階で正式に第1回目の会合をもったわけです。

(T氏)その半年間は準備期間だったわけですね。

(荒井)ええ、当時、北村小松さんという有名な流行作家が、文芸春秋とかいろんなところにUFOについて書いておられましたので、この方にも連絡を取りましてね、科学的な研究態度でUFOの研究会を組織して専門的にやってみたい、何かご援助いただけないでしょうか、ということで手紙を差し上げたりしました。そうしたら、君の意見に大賛成だ、大いにやりたまえ、全面的にバックアップするから、というような返事をいただきまして、たいへん気を強くしたわけです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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荒井欣一氏にインタビュー「UFO問題は人類の将来を決定ずける」#1

s-荒井欣一(UFOと宇宙12月号・1978年から)
聞き手 本誌編集部 武田益尚(以下「T氏」)

(T氏)まず最初に、荒井先生がUFO問題に興味をもたれたキッカケ、そのあたりからお話しいただけますか?

(荒井)あざやかなキッカケ、たとえば実際にUFO目撃したとか、そういうのはないですよ。私は戦争中、山口県小月の陸軍航空隊、現在は海上自衛隊の航空基地になっていますが、そこの機上レーダー、つまり戦闘機や軽爆撃機に搭載する機上レーダーの整備基地におりました。そこで、敗戦後は「翼のない日本」ということになってしまいましたが、航空機や気象・天文観測ということに対してはズーッと興味を持ち続けていたわけです。そこへたまたま、UFOというよりも当時は「空飛ぶ円盤」ですよね、そのニュースが日本の新聞にも出たんです。

(T氏)戦後の空飛ぶ円盤騒ぎの発端となったといわれている、ケネス・アーノルドによるレイニヤ山上空の目撃が、日本でも報道されたのですか?

(荒井)一般のニュースのようにすぐ報道されたわけではなかったようですね。FENでは放送したそうですが。ただ、アーノルドの目撃が昭和22年6月24日ですが、早くも7月頃になると、アーノルド事件を含めて、アメリカに謎の物体現る、といった記事が出たし、8月頃になると、いったいあれは何だろうということで特集記事も組まれたように記憶しています。また、日本での目撃者も名乗りをあげはじめました。
そういうのを読んで、これは私の直観ですが、どうもこれは地球上の飛行機とは形態もちがうし飛び方もちがう、他の天体の知的生命があるいは飛ばしているのではなかろうか、と考えるようになった。そうなってくるとさらに興味を覚え、それとその頃、国際情勢がたいへん険悪になって、いつまた世界戦争が勃発するかわからんといった状況になってきた。こういう険悪な情勢を打開し、平和な状態にもどすにはどうしたらいいだろう。ここでもし地球に監視している第三者的存在のUFOというものの実在がはっきりすれば、たちどころに戦争はなくなるんじゃないか、そういう期待もあって、この円盤こそは、私たち人類の将来にとって貴重な存在ではないか、とこう考えるようになったわけです。

つまり私は、科学的観点ということはもちろんですが、政治的というか平和的な観点からも興味をもった。ですから、その後、「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成してからも「宇宙平和宣言」などの声明文を機会あるごとに発表しました。あの声明自体、時代の変化はあっても、基本的には今でも立派に通用するものだと思うし、そういう姿勢をもって今日までUFO問題に取り組んできたというのが私としてはひとつの大きな自負なんです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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松村雄亮氏について

010701sonota382-trans宇宙友好協会(CBA)を設立した松村雄亮氏との関わりについて荒井欣一さんが書いています。

彼は生まれてから、神奈川県の横浜に住んでいたようだが、父の仕事のため、小学校時代に旧満州の乗員訓練養成所に入所し、数年で終戦を迎え、一旦、シベリアに抑留されたが、脱出して昭和21年に日本に戻った。

彼の父はスイスの航空雑誌「インタラビア」の日本通信員として勤務していた関係上、海外の航空事情に詳しく、従って、「空飛ぶ円盤」の情報にもいち早く接する状況下にあった。

彼はそれらの情報を基に、「UFO NEWS REPORT」を数号発行して廃刊。その頃、私も「日本空飛ぶ円盤研究会」を組織し、マスコミにもしばしば紹介してくれたが、彼の会も「読売新聞」の神奈川版に紹介されていた。(中略)

始めの内は、彼等とも協力体制を維持していたが、彼は昭和32年、新たな「宇宙友好協会(CBA)」を設立して次第に我々とは疎遠になっていった。

その後の彼の行動は、次第に狂言的、独善的となり、自らは「サーティーン」と名乗り、教祖的存在となり、色々各方面と問題を起こしながら、遂には彼は円盤や、その母船に乗ったと公言し、地球破滅の時期が近いなどと発表した。

例のトクナガ文書等で致命傷を蒙りながら、遂にオキクルミ計画と称して、昭和39年、北海道日高郡平取に350万円をかけてハヨピラを建設し、海外の外交官も集まり、盛大な祭典がなされたが、その頃から、彼は重病に侵され、その後は、再び表面に登場しなくなったようだ。

最近も海外のUFO研究誌に彼の名前を時々見るが、恐らく病床から最新情報だけを、奥さんの手を通じて送っていたようだ。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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テレビ東京「私の昭和史」(7)円盤を見てみたい

010301nori019-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)荒井さん自身UFOを見た事はありますか。

(荒井)見たいと思って会社の行き帰りに、特に夜などは注意して見ているのですが、未だにお目にかかったことはありません。

(三国)荒井さんはUFOを見ておられないが、御覧にならないのに信じるというお気持ちはどうなのですか。

(荒井)要するに科学者、天文学者、宇宙飛行士の方たちが結構UFOを目撃したり、写真を撮ったりしています。こういう事例はかなり多くあります。その人たちは、これによって儲けようとか、有名になろうとかは恐らくないでしょう。したがって、本当の真実を言っているのではないかと思います。

(三国)今、情報時代と言われていますが、こういった情報が世界中各地にあるわけで、それを高度な分析なり、研究が高度に進んでいくと思うのですが、国際的な交流はありますか。

(荒井)特別に国際的な交流はありませんが、その内に交流したいと思っています。

(三国)会社に勤めながらの研究は大変だと思いますが、今後の研究会の計画はいかがですか。

(荒井)今若い人たちのグループが熱心に円盤の研究をし出したので、その人たちの後援をしていいければと思っています。(終わり)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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テレビ東京「私の昭和史」(6)宇宙人は友好的か

010701sonota382-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)アメリカやソ連に集中的にUFOの目撃例があるというデータがあります。これについてどう思われますか。

(荒井)アメリカやソ連はロケット実験や原爆の実験をやっていますので、特に実験場付近に頻繁に現れるのだろうと考えます。それでソ連は研究機関を立ち上げていますが、逆にアメリカはコンドン委員会で研究機関を解散させています。

(三国)アメリカの中では宇宙人から襲撃という形で危害を及ぼすという考え方と、友好的であろうという考え方がありますが、荒井さんはどうして友好的であろうという考え方をお持ちになりましたか。

(荒井)もし宇宙人が破壊的な生物であり、しかも高度な科学力を持っているとすれば、とうの昔に地球文明を破壊するのは簡単だと思いますが、未だにそのような事態が発生していないということと、宇宙人が地球に着陸したという目撃例は多数ありますが、地球人に対して敵意を示すケースは意外に少ない感じがします。

(三国)UFOは何をしに来ると思いますか。

(荒井)先ほども言いましたが、原爆実験場とか宇宙にも影響のあるものの調査だと思っていますが、私の場合、地球人より知能が進んでいるとか、平和的であるというのは、宗教的とは言えないまでも、ロマンチズム過ぎるきらいがあります。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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テレビ東京「私の昭和史」(5)円盤に対する幻想について

010701sonota384-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)空飛ぶ円盤に関してはいろいろな説がありまして、スイスのグスラフ・ユング氏が述べた昭和33年8月の新聞記事がここにあります。

ユング博士は、8日、チューリッヒで「空飛ぶ円盤は現代の救世主神話」だという新説を発表した。

それによると、今の暗い世界情勢から、多くの人は幻想を求め、真剣な悩みに対し、回答を求めているが、誰もそれに答えられない。そこで、彼らは、自分の幻想で空飛ぶ円盤を見て、これに救いを求めるのだという。

ユング教授の円盤に関する文献には、円盤に乗ってきた生物が、地球人に教え、助けるという考え方を書いているものが多く、これは多くの現代人が、救世主を待望していることを示すものだそうだ。

となっています。グスタフ・ユング教授は精神病理学者で、このような推理をしていますが、荒井さんの組織している研究会は順調に活動されていますか。

(荒井)一時は千人近くの会員がおり、活発な活動をしていましたが、その後、いろいろな団体が出来てきて、我々の研究会は特に科学主義を標榜していましたので、内容が非常に固いという批判もあり、会員の数は減少していきました。

ちょうどその頃私自身身体を壊して、しばらくの間円盤と遠ざかっていた時期がありました。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いた我が人生 荒井欣一自叙伝

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テレビ東京「私の昭和史」(4)UFOと天文学者について

010301nori008-trans「今日も円盤は飛ぶ UFOを追って」 放映 昭和48年3月27日
聞き手 三国一朗氏
ゲスト 日本空飛ぶ円盤研究会代表 荒井欣一氏

(三国)宇宙とか天文の専門の科学者たちはどういう見方をしていますか。

(荒井)科学者特に天文学者は空を見る機会が多いので、円盤を目撃するチャンスは多いとは思いますが、天文学者、特に日本の天文学者の目撃例は非常に少ないです。一部の方は、頭から「円盤は飛ばず」と否定しているようです。しかし、海外の天文学者で冥王星を発見されたトンボー博士は、UFOらしきものを見ています。また、パイロットの方など信用できる方々も多く目撃しています。

(三国)何か非常に固い感じがしますね。

(荒井)やはり専門家となると言動に注意するのではないでしょうか。

(三国)専門の科学者はどう考えているのでしょうね。

(荒井)科学というのはある程度仮説をこしらえて、それを追究することが科学を発展させる上で必要なものだと思いますが、今の科学者のように既成事実だけで判断するということだけでは、科学の本質ではないと思います。(つづく)

参考文献 ロマンを抱いたわが人生 荒井欣一自叙伝

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