荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#3

s-荒井欣一(T氏)第1回目の会合に北村さんは来られたのですか?

(荒井)ええ、おいでになりまして、当時では珍しい海外のUFO文献を見せていただきました。また、その頃、五反田の現在の埼玉銀行があるところに大映の映画がありまして、そこの支配人と大映プロデューサーの中代富士男さんという方も来られました。当時製作中だった「宇宙人東京にあらわる」という映画の裏話をいろいろ聞かせてもらいました。人数は近所の人を中心に30名ぐらいでしたが、意見発表も活発に行われ、こういう楽しい研究会はぜひ続けたい、年2回ぐらいはこういう集いをもち、それと同時にみんな意見を掲載する機関誌も発行しようということになりまして、私が編集を引き受けて、昭和31年の7月に「宇宙機」の第1号が誕生したわけです。

それからまもなく、この会のことが朝日新聞や週刊読売に紹介されましてね。たまたまその頃、国内でいくつも目撃事件があって、その記事といっしょにこういう研究会がある、そこにはこういう目撃報告もよせられるというので紹介してくれたのです。朝日なんか夕刊で一面をさきましたからね。どっと入会希望者がきましたよ。かくして、われわれは町の中の同好会から一挙に飛躍をせまられたのです。星新一さん、荒正人さん、三島由紀夫さん、いろんな有名人も入って来られました。

(T氏)柴野さんは、北村さんの紹介で、このどっと会員が増える前からおられました。私はあの人とはよくウマがあって結局、会の運営に当たっては、私たち二人が中心になったわけです。もっぱらSFの方で有名ですが、あの方が日本のUFO研究に果たした功績はたいへん立派なものです。

(T氏)斎藤守弘先生も会員だったとか?

(荒井)斎藤さんはまだ文理科大学の学生さんでした。やはり新聞で見て私の所に訪ねて来られたように思います。あの人はもうその頃からUFOや超常現象の資料をずいぶん集めておられて、しかもそれを大学ノートにぎっしりと書いてあるんですよ。あれには驚きましたね。これはいい知り合いができたと思いました。それで「宇宙機」にも書いていただくようになりましてね。それから昭和33年に「空飛ぶ円盤は宇宙機である」というテーマで会員から論文を募集したんですが、これにも河津薫つまりは斎藤守弘さんのペンネームだったのですが、彼が一等に入選されました。この論文は「空飛ぶ円盤研究シリーズ」と銘打った小冊子の第一弾として発行させてもらいました。

それから高梨純一さんもずいぶん資料をお持ちになっておられましてみんあビックリしたものです。彼はまもなく大阪で近代宇宙旅行協会(MSFA)という別の団体を結成されました。その後も高梨さんとは絶対的に協力し合うという関係で、これはどんな苦境にあっても、有名になっても同じです。

(T氏)しかしずいぶんそうそうたるメンバーが、荒井先生の研究会から巣立っていったわけですね。

(荒井)ええ、ただし、斎藤さんにしても高梨さんにしても、それまで独自にずいぶん資料を集めて研究されていたわけです。ただ、まあ、私がJFSAを結成したことによって、お互いの交流の場ができた、それが皆さんに一つの刺激となり、はげみになったということは言えるでしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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