フランスにも着陸している(洋画家 三岸節子さん)

010301nori019-trans「洋画家 三岸節子さんの場合」

1954年の秋ごろから春にかけて、南仏アンチープの海岸に降りた機体が発光体みたいなもので、降りてもすぐ垂直に上り、自由自在でそれがすごいスピードで、乗員は長靴をはき、背が低く、1メートルちょっとくらいで3人位いたそうで、子供がそばによったら、言葉ではないけれど、そばによっちゃ危ないと言い、修繕するために降り立ったらしい。

フランスでは厚い空飛ぶ円盤の本が出ていて、写真が沢山出ており、フランスの新聞では水爆や原爆を地球の人間が発見して、これは大変危険だから、それを止めさせようと警告に火星人が来ているのだろうと書いてあった。

フランスの北方にも円盤から降りて中から人間らしきものが出てきて線路を上を歩いているのを目撃した人が書いた話が大きく出ていた。(抄)

小説公園 1930年12月号より

参考文献 空飛ぶ円盤研究会機関誌宇宙機創刊号(1956年7月1日付け)

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緑色した8本指の小人ヒューマノイド

s-ヒューマノイド2SF作家で画家として有名なヨハニスは、地質学が趣味で、余暇はほどんどその調査研究にあてていました。1947年8月14日、イタリアとユーゴスラビアの国境近くの山の中をハイキングしていたとき、50メートル前方に鮮やかな赤い色をした大きな凸レンズ型のUFOが着陸しました。

UFOの高さは6メートルくらいで、木立ちに隠れていたところ、2人の少年を見つけて、UFOを指さして大声で叫びながら彼らに近づいていきました。だが、彼らは少年ではなく、宇宙人でした。いわゆる「ヨハニス事件」です。

ヨハニスはピッケルを持って、宇宙人に「お前らは誰だ。」と怒鳴ると、宇宙人は威嚇されたと思い、ベルトから蒸気のような光線を放出され、ヨハニスは電気ショックを受けたように昏倒し、ピッケルは彼の手からすっ飛びました。

数分後、UFOは垂直に上昇して、やや機体を傾けながら小さくなっていきました。そのときの時間は、午前9時14分でした。

参考文献 グリーンアロー出版社 宇宙人大図鑑

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UFOの月刊世論調査

010301nori008-trans昭和63年2月1日発行総理府世論調査室の調べです。

「宇宙には地球と同じように生物がいる星がいくつも存在する。」ことについての意見を聞いたところ、「全くそのとおりだと思う」者が9.9%、「そう思う」者が39.5%、「そう思わない」者が17.6%、「決してそうは思わない」者が4.3%であり、わからないと答えた者が28.7%と多かった。

アメリカでは同意する者の割合が日本より高く、約3分の2の者が同意している。

「UFOは実在する。」ことについて意見を聞いたところ、「全くそのとおりだと思う」者が6.0%、「そう思う」者が28.2%、「そうは思わない」者が27.1%、「決してそうは思わない」者が7.4%で、同意する者(34.2%)と同意しない者(34.5%)がほぼ同じ割合となっている。また、わからないと答えた者も31.2%と多かった。

アメリカでも同意する者と同意しない者の割合はほぼ同じになっているが、フランスでは信じない者の方が多い。

当時のUFOの世論調査はどのように利用されたのでしょうか。

参考文献 月刊世論調査 昭和63年2月1日発行

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朝日新聞「素描」(昭和31年7月9日)

010301nori001-trans日本空飛ぶ円盤研究会の会員が増えたとされるマスコミが取り上げたものの一つです。

「空飛ぶ円盤研究会」という会が、これほど創立された。本部は東京品川区五反田1の268。世話役は荒井欣一氏。機関紙「宇宙機」創刊号は今月1日に発行された。

この機関誌「私は円盤をみた」という欄には、作家森田たまさん、画家三岸節子さんたちの話が転載されている。

創立総会をかねた第1回研究会では、北村小松氏が諸外国の情勢を、中代富士男氏が企画中の第二回宇宙映画の構想を、それぞれ熱心に語って大変盛会だった。

空飛ぶ円盤の研究は外国ではとても盛んで円盤を主題にした映画「空飛ぶ円盤地球に襲来」、「禁断の遊星」、「宇宙戦争・新版」の三つを制作、来月以降に日本でも封切の予定といわれる。

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会の設立「JFSA誕生秘話」(発行日等は不明です。)

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科学派か、信仰派か(SF作家柴野拓美氏の場合)パート2

(続き)

わたしもどちらかといえばその部類で、もともと興味の中心は架空のSF的な発想の展開にあり、UFOそのものに対しては一歩しりぞいて、「もしUFOが異星の宇宙船だったらこの科学技術は?また乗っている異星人の故郷は?」といったアプローチの方法をとっていた。

1957年の春、はじめてSFのグループを結成したときには、荒井さんの許可をもらって月例会の席上で仲間を集めさせてもらったが、同好の士が多いことにあらためて驚かされた。こうして発足したSF専門の同人誌「宇宙塵」からは、のちに一時期日本のSF界を支えた作家たちの大半がデビューしたので、「JFSA」は、いわば日本SFのためにも貴重な土壌を提供してくれたことになる。

だが考えてみると、こんなふうにUFOとSFが同居していたというのはなんとも不思議な話である。純粋なUFO研究家の立場からすれば、「自分たちがやっているのはSFなどというつくりごとではなく、まじめな真理探究なのだ。」と言いたいだろうし、SFの側からみれば、「われわれフィクションを楽しんでいるのであって、円盤信者などと一緒にされては迷惑だ。」ということになるのだろう。

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会発足秘話 知られざるニッポンUFO探求史(画像の内容とは異なります。)

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科学派か、信仰派か(SF作家柴野拓美氏の場合)パート1

010301nori009-trans日本空飛ぶ円盤研究会の会員だった柴野拓美氏が研究会との関わり合いや思い出を語っています。

「SF作家 柴野拓美氏の場合」

今から振り返ってみると、そのころUFOの研究に集まっていた人間模様の多彩さは驚くばかりで、あるいはUFOそのものよりもこっちのほうが興味津々かもしれない。当時の厳しい世情のなかで、未知の宇宙や超科学の世界に思いを馳せた人々、というのがまあ包括的な捉え方だろうか。とくに荒井さんのようにUFOそのものに追求の対象を絞っているのが、いわば正統派の研究会ということになるが、そのなかでは、彼のように正統不偏の立場をつらぬいている人物は、むしろ、希少価値だったような気がする。

一方にはひたすら「科学性」を標榜して証拠集めとその独自の分析に執念を燃やす人々がいるかと思うと、他方には新興宗教そこのけ円盤信仰をふりかざす一派があり、それぞれに融合集散していた。

全般的にみると、時の推移とともに科学派は衰退し、信仰派の人々が勢いを増してきたようだが、これはむしろ当然の帰趨というべきだろう。宗教組織は「法難」によって強化されていくからである。こうした両翼のあいだを埋めていたのが、量的にはむしろ多数派の、関心をUFOに絞らない、「好事家」という人々だった。(続く)

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会発足秘話 知られざるニッポンUFO探求史(画像の内容と異なります。)

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フラットウッズ事件

s-フラットウッズ2アメリカのフラットウッズという人口300人の小さな村で、フットボール場で遊んでいた兄弟とその友達5人が、1952年9月2日、日没から30分ほど経過した午後7時15分ごろ、「隕石」が頭上を通過して近くの谷に落下するのを目撃しました。

子供たちは落下物を追って丘に向かい、兄弟の母親も一緒に行きました。70メートルぐらいまで近づくと、その物体は脈動しており、直径7.5メートル、高さ1.8メートルほどあり、その周辺には悪臭が漂っていて、みんな目が潤み、鼻がヒリヒリしました。

そして、山に立ち込めいている霧を通して、身長3~5メートル、胴体が大きく、顔が血のように赤いモンスターを目撃したのです。

宇宙人は、地面をふわふわ浮かびながら移動し、奇妙な悪臭のガスを放っていて、目撃者たちは吐き気を覚えました。1時間後、保安官が現場に来たときは、宇宙人の姿はありませんでしたが、あたりには悪臭が漂っていました。

福島市飯野町の「UFOふれあい館」にいるモンスターは悪臭は出さないと思います。

参考文献 グリーンアロー出版社 宇宙人大図鑑

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UFOカメラを体験してみませんか

UFOカメラあなたもUFOの目撃者になってみませんか?

福島市飯野町の千貫森には、カメラが設置されており、パソコンの画面から千貫森の空を見ることができます。

例えて言うなら、「どこでもドア千貫森UFOカメラ」でしょうか。家に居ながらにして、福島に行った気持ちになる。そんなすぐれものなんです。

UFOカメラは24時間稼働していますので、いつでもUFOを探してみてください。

ログインの方法は、UFOの里ホームページの「識る」のアイコンをクリックし、次に、「UFOカメラ」のタブをクリックします。そうすると上記の画面が出てきますので、カメラのアイコンをクリックしてください。

また、プリセットを選択すると、方向を変えることができます。

なお、不具合等への御質問には応じられませんので、あらかじめ御了承願います。

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空飛ぶ円盤研究会の目的

010301nori005-trans宇宙機創刊号に荒井欣一氏が寄せた内容です。空飛ぶ円盤研究会の目的は何だったのかが分かります。

ウイルキンス、アダムスキー、アリンガムなどの世界のUFO(未確認飛行物体)研究家たちの著書が、我が国に伝えられて数年になるが、まだ我が国においては本格的研究機関もなく、いたずらに空想あるいは幻覚の産物としてしか見られていないのが現状である。

しかしながら、この広大なる宇宙にそれらが存在するか否かを研究することは、荒唐無けいなる非科学的なものであるとは言えないと思う。

なぜならば、我々地球人でさえ、遠からざる将来における宇宙旅行の計画を現在ねっているのだから。

故に我々が世界に報道される円盤関係のあらゆる資料を所有し、現代のすぐれた宇宙科学によってその真偽を検討することは、我々がたとえアマチュアたちの研究機関であるとしても宇宙旅行への歴史の1ページとして意義あるものではあるまいか。

参考文献 空飛ぶ円盤研究会 宇宙機創刊号(1956年7月1日発行)

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「円盤を警戒せよ」について(星新一氏)

010301nori016-trans空飛ぶ円盤研究会の会員だったSF作家星新一氏が「宇宙機」に寄稿する経緯が書かれています。

「星新一氏の場合」

いまでこそUFOばやりだが昔は空飛ぶ円盤と呼んでいた。新聞の外電欄などで関心は持っていたが、その研究会が日本に出来たことを新聞で読み、私が入会したのは、昭和31年の秋ごろだったと思う。そこで柴野拓美さんと知り合い、翌年のSF同人誌「宇宙塵」の発刊となったのである。

円盤研究会の会員は、少しおかしなのもいたが、大部分は意外とまともな人たちで、純粋な好奇心の持ち主が多かった。会長の荒井さんはまじめで温厚な性格で、そのため時たまの会合は、なかなか楽しいものとなった。私もたのまれるまま、会の機関誌の「宇宙機」に2回ほど文章を書いた。(中略)

先日、研究会創立20年のパーティーがあり、昔の仲間と久しぶりに会った時、私は言った。「UFOじゃなくて、空飛ぶ円盤と呼ばないと感じ出ませんね。」うなずく人が多かった。

いずれにせよ30歳前後のころ、私が円盤とかなり深くかかわりのあったのは事実だし、いまにして思うとそれが人生の一つの分岐点でもあったのである。

参考文献 空飛ぶ円盤研究会資料(スクラップブック)

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