荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#4

s-荒井欣一(T氏)定例会を開催し、「宇宙機」を発行された、それから当然、事件の調査なども行われたわけでしょう?

(荒井)ええ、何かことあるごとに調査に行ったもんですよ。

(T氏)いちばん記憶に残っている事件をお聞かせ下さい。

(荒井)そうですね、いろいろありますが、千葉県の銚子で起こった金属箔の事件がありましたねえ。あれは昭和31年9月7日のことでした。ちょうど火星が地球に大接近するというので、うちの研究会でも各地の支部に観測指令を出したころです。当時は火星にUFOの基地があるという説がありましてね、2年目ごとにUFOウェーブがあって、これが火星の接近と関係あるんじゃないかというんです。それはともかくとして、この日の午後7時頃、銚子市一帯でUFOが目撃され、それと絶対に関係があるとは断言できませんが、同じ時刻に、やはり銚子一帯の数か所に空から謎の金属箔が降ってきたのです。銚子には会員の滝田さんというお医者さんで、日本天文学会にも所属してらっしゃる方がおられまして、この方から、どうも普通の金属箔じゃないというので送って来られたわけです。

(T氏)どれくらいの大きさのものだったんですか?

(荒井)長さ4~5センチ、幅1ミリ、厚さ10ミクロンという細かくうすいものでした。それでもかく現地へ会員の石津君を調査に派遣する一方、私は野沢さんという読売新聞の科学記者の紹介で、この金属箔を持って都立工業奨励館を訪れ分光分析を依頼したのです。そうすると主成分はアルミニウムであるのに、鉛が10%も混入しているという結果が出た。アルミニウムに対しては0.3%以上の鉛は混入できないはずで、これは東京工大の金属学教室に問い合わせて確認しました。そこで再度分析してもらうと、金属箔の裏にビニールのコーティングがしてあって、その中に鉛が粒状に黒く点在していることがわかったのですが、分析した技師は、ふつう鉛がビニールの中に混入している時は完全に溶けて透明になるはずであり、このような状態は見たこともない。また、なぜそういった分布状態にしたのか理由がさっぱりわからない、さらに極微量ではあるがバナジウムというような滅多にない元素がアルミに混入しているのもよくわからない、とこう言うんですよ。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#3

s-荒井欣一(T氏)第1回目の会合に北村さんは来られたのですか?

(荒井)ええ、おいでになりまして、当時では珍しい海外のUFO文献を見せていただきました。また、その頃、五反田の現在の埼玉銀行があるところに大映の映画がありまして、そこの支配人と大映プロデューサーの中代富士男さんという方も来られました。当時製作中だった「宇宙人東京にあらわる」という映画の裏話をいろいろ聞かせてもらいました。人数は近所の人を中心に30名ぐらいでしたが、意見発表も活発に行われ、こういう楽しい研究会はぜひ続けたい、年2回ぐらいはこういう集いをもち、それと同時にみんな意見を掲載する機関誌も発行しようということになりまして、私が編集を引き受けて、昭和31年の7月に「宇宙機」の第1号が誕生したわけです。

それからまもなく、この会のことが朝日新聞や週刊読売に紹介されましてね。たまたまその頃、国内でいくつも目撃事件があって、その記事といっしょにこういう研究会がある、そこにはこういう目撃報告もよせられるというので紹介してくれたのです。朝日なんか夕刊で一面をさきましたからね。どっと入会希望者がきましたよ。かくして、われわれは町の中の同好会から一挙に飛躍をせまられたのです。星新一さん、荒正人さん、三島由紀夫さん、いろんな有名人も入って来られました。

(T氏)柴野さんは、北村さんの紹介で、このどっと会員が増える前からおられました。私はあの人とはよくウマがあって結局、会の運営に当たっては、私たち二人が中心になったわけです。もっぱらSFの方で有名ですが、あの方が日本のUFO研究に果たした功績はたいへん立派なものです。

(T氏)斎藤守弘先生も会員だったとか?

(荒井)斎藤さんはまだ文理科大学の学生さんでした。やはり新聞で見て私の所に訪ねて来られたように思います。あの人はもうその頃からUFOや超常現象の資料をずいぶん集めておられて、しかもそれを大学ノートにぎっしりと書いてあるんですよ。あれには驚きましたね。これはいい知り合いができたと思いました。それで「宇宙機」にも書いていただくようになりましてね。それから昭和33年に「空飛ぶ円盤は宇宙機である」というテーマで会員から論文を募集したんですが、これにも河津薫つまりは斎藤守弘さんのペンネームだったのですが、彼が一等に入選されました。この論文は「空飛ぶ円盤研究シリーズ」と銘打った小冊子の第一弾として発行させてもらいました。

それから高梨純一さんもずいぶん資料をお持ちになっておられましてみんあビックリしたものです。彼はまもなく大阪で近代宇宙旅行協会(MSFA)という別の団体を結成されました。その後も高梨さんとは絶対的に協力し合うという関係で、これはどんな苦境にあっても、有名になっても同じです。

(T氏)しかしずいぶんそうそうたるメンバーが、荒井先生の研究会から巣立っていったわけですね。

(荒井)ええ、ただし、斎藤さんにしても高梨さんにしても、それまで独自にずいぶん資料を集めて研究されていたわけです。ただ、まあ、私がJFSAを結成したことによって、お互いの交流の場ができた、それが皆さんに一つの刺激となり、はげみになったということは言えるでしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「本屋の店頭での議論からスタート」#2

s-荒井欣一(T氏)なるほどよくわかりました。それで、いよいよ「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成しようということになったのは…?

(荒井)今申し上げましたように、昭和22年~23年頃からずっと興味はもっていましたが、研究会を結成したり機関誌を発行したりということになるのは、もっと後です。そのキッカケは、昭和29年に例のジョージ・アダムスキーの本が日本でも翻訳されましてね、私はちょうどその頃五反田の駅前で書店をやっておりました。私としては当時からこんな話は科学的な検証に耐えうるものではないし、こんなにハッキリ写真が撮れるものかと疑問に思いましたが、そのうちに、この本を買った人で、近所の関心のある人たちが店の中に集まって、ウソかマコトかという議論が続くようになった。大半は否定的でしたが、なかにはずいぶん熱心に支持する人もいて、やがて、こういった問題をひとつ公の場で論じてみたら面白かろうということになってきた。ただ、アダムスキーがウソかマコトかという特殊な問題だけじゃなしに、UFO全般について論じあおうじゃないかということでね。それで昭和30年7月に「空飛ぶ円盤研究会」、当時はまだ「日本」というのを頭にかぶせてなかったんですが、ともかくも名乗りを上げましてね、翌年2月4日に五反田の私の家の近くの水野食堂2階で正式に第1回目の会合をもったわけです。

(T氏)その半年間は準備期間だったわけですね。

(荒井)ええ、当時、北村小松さんという有名な流行作家が、文芸春秋とかいろんなところにUFOについて書いておられましたので、この方にも連絡を取りましてね、科学的な研究態度でUFOの研究会を組織して専門的にやってみたい、何かご援助いただけないでしょうか、ということで手紙を差し上げたりしました。そうしたら、君の意見に大賛成だ、大いにやりたまえ、全面的にバックアップするから、というような返事をいただきまして、たいへん気を強くしたわけです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「UFO問題は人類の将来を決定ずける」#1

s-荒井欣一(UFOと宇宙12月号・1978年から)
聞き手 本誌編集部 武田益尚(以下「T氏」)

(T氏)まず最初に、荒井先生がUFO問題に興味をもたれたキッカケ、そのあたりからお話しいただけますか?

(荒井)あざやかなキッカケ、たとえば実際にUFO目撃したとか、そういうのはないですよ。私は戦争中、山口県小月の陸軍航空隊、現在は海上自衛隊の航空基地になっていますが、そこの機上レーダー、つまり戦闘機や軽爆撃機に搭載する機上レーダーの整備基地におりました。そこで、敗戦後は「翼のない日本」ということになってしまいましたが、航空機や気象・天文観測ということに対してはズーッと興味を持ち続けていたわけです。そこへたまたま、UFOというよりも当時は「空飛ぶ円盤」ですよね、そのニュースが日本の新聞にも出たんです。

(T氏)戦後の空飛ぶ円盤騒ぎの発端となったといわれている、ケネス・アーノルドによるレイニヤ山上空の目撃が、日本でも報道されたのですか?

(荒井)一般のニュースのようにすぐ報道されたわけではなかったようですね。FENでは放送したそうですが。ただ、アーノルドの目撃が昭和22年6月24日ですが、早くも7月頃になると、アーノルド事件を含めて、アメリカに謎の物体現る、といった記事が出たし、8月頃になると、いったいあれは何だろうということで特集記事も組まれたように記憶しています。また、日本での目撃者も名乗りをあげはじめました。
そういうのを読んで、これは私の直観ですが、どうもこれは地球上の飛行機とは形態もちがうし飛び方もちがう、他の天体の知的生命があるいは飛ばしているのではなかろうか、と考えるようになった。そうなってくるとさらに興味を覚え、それとその頃、国際情勢がたいへん険悪になって、いつまた世界戦争が勃発するかわからんといった状況になってきた。こういう険悪な情勢を打開し、平和な状態にもどすにはどうしたらいいだろう。ここでもし地球に監視している第三者的存在のUFOというものの実在がはっきりすれば、たちどころに戦争はなくなるんじゃないか、そういう期待もあって、この円盤こそは、私たち人類の将来にとって貴重な存在ではないか、とこう考えるようになったわけです。

つまり私は、科学的観点ということはもちろんですが、政治的というか平和的な観点からも興味をもった。ですから、その後、「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成してからも「宇宙平和宣言」などの声明文を機会あるごとに発表しました。あの声明自体、時代の変化はあっても、基本的には今でも立派に通用するものだと思うし、そういう姿勢をもって今日までUFO問題に取り組んできたというのが私としてはひとつの大きな自負なんです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

テレビの取材がありました(宇宙海賊ゴージャスさん)

昨日、平成26年12月17日(水)に、宇宙海賊ゴージャスさんにUFOふれあい館を取材していただきました。福島放送「ドミソラ」の取材ということで、平成27年1月10日(土)の「ドミソラ」で放送されるそうです。みなさん御覧ください。

取材の中で、宇宙海賊ゴージャスさんとのやりとりを少しだけ暴露しちゃいます。

「宇宙海賊ゴージャスさんの実話」

〇 私に宇宙海賊ゴージャスさんが分からないところを質問しますと言われたので、私は分からないこともあるし、アドリブはききませんよと言ったところ、「みんなアドリブはききませんから大丈夫」と言っていました。(爆)

〇 二階の浴場のところも取材したのですが、二階では靴を脱がなくてはならないため、靴を脱いだとたん、ゴージャスさんが視野に入らなくなりました。高いヒールの靴履いているんです。(ごめんなさい)

〇 宇宙海賊ゴージャスさんに、UFOを目撃したことがあるかどうか聞いたところ、UFOは見たことないと言ってました。(カミングアウト)でも宇宙には詳しそうでしたよ。

s-ゴージャス色紙2また、色紙にサイン書いていただきました。ありがとうございました。

 

Share Button

【UFOふれあい館の年末年始の営業について】

平成26年から平成27年の年末年始は、「UFOふれあい館」は次のとおり営業します。

平成26年12月28日(日) 営業
平成26年12月29日(月) おやすみ
平成26年12月30月(火) おやすみ
平成26年12月31日(水) おやすみ
平成27年 1月 1日(木) おやすみ
平成27年 1月 2日(金) おやすみ
平成27年 1月 3日(土) おやすみ
平成27年 1月 4日(日) 営業

「UFO物産館」及び「千貫森庭球場」の営業も同様です。お間違えの無いようお出掛けください。

Share Button

宇宙食「空飛ぶ円盤」(三島由紀夫氏)#4

010701sonota389-trans3、4秒、肉眼で迫ったのち、私はあわてて双眼鏡を目にあてたが、焦点がうまく合わない。妻も写真機のファインダーをのぞいている。私が双眼鏡から目を離したとき、すでにその姿はなかった。妻はファインダーの中にキャッチしていたが、シャッターを切る自信がないままに、出現してから5、6秒で、西方の雲の中へ隠れたのである。

これを見て、われわれが鬼の首でも取った気になったのは言うまでもない。しかし周囲は意外に冷静で、父の如きは、夫婦が共謀してデッチ上げをやっているんだ、と頭から信じない。肝腎な目撃者の妻も、「あれ、きっと円盤よ。信じるわ、私も。でも一度見たから、又見なくてもいい」とケロリとしている。

日が経るにつれて、私の自信も何だか怪しくなってきた。それが果たして円盤だったかどうか、科学的に証明する方法はないし、北村小松氏も風邪で寝ておられて、目撃されなかった。

日ましに私は、自分で見たものが信じられなくなっていながら、人が「そりゃ目の錯覚だろう」などと言うと、腹が立つのである。とにかくわれわれ夫婦が、へんなものを見たのはたしかである。それを誰にも信じさせることができないのは、妙に孤独な心境に私を追い込んだ。これも翻って考えると、嘘八百を並べて人をたぶらかしてきた小説家稼業の報いであろう。しかしもしあれが円盤だとしたら、乗っていた宇宙人は、今ごろ私のあやふやな心境を、嘲り笑っていることであろう。「ここに俺がいるのに、あいつは地球人のつまらん常識にとらわれている」という彼らの笑い声が耳に聞こえてくるような気がする。

哲学的見地から云うと、こうしてここにわれわれ人間が生存しているという事実も、宇宙人の存在以上に確実なものといえるかどうか、甚だあやしいのである。夏の星空がそのことを教えてくれているようだ。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

宇宙食「空飛ぶ円盤」(三島由紀夫氏)#3

010701sonota376-transいくら待っても、空には何の異変も現れなかった。飛行機一つ通らず、ときどき屋上をかすめて飛ぶ朝の小鳥たちの、白いお腹を見るだけであった。空がこんなに静かで何もないものだとは知らかなった。

5時をすぎると、妻はニヤニヤしてきた。「もう円盤なんか現れるもんですか」と妻は言いはしないが、あたりの朗らかな初夏の朝の景色が、口をそろえて明らかにそう言っている。

畑のあいだには、早くも犬を散歩に連れている人の姿が見え、緑の野の間の道を、白ズボンの腰に白い新聞の束を抱えた新聞配達が、鹿のように大股に駈けすぎる姿が小さく見える。向こうの丘の白亜のビルが、朝日をうけて、くっきり浮き出て来る。「5時半まで待とうよ」と私が言いながら、5時20分ごとになると、そろそろばかばかしくなり、眠くもなって、屋上を降りたくなってきた。

5時25分になった。もう下りようとしたとき、北のほうの大樹のかげから一抹の黒い雲があらわれた。するとその雲がみるみる西方へ棚引いた。「おやおや異変が現れたわ。円盤が出るかもしれなくってよ」

妻が腰を落ちつけてしまったので、私もその棚引く黒雲を凝視した。雲はどんどん西方へむかって、非常な速さで延びてゆく。西方の池上本門寺の五重塔のあたりまでのびたとき、西北方の一点を指さして、妻が「アラ、変なものが」と言った。見ると、西北の黒雲の帯の上に、一点の白いものが現れていた。それは薬のカプセルによく似た形で、左方が少し持ち上がっていた。そして現れるが早いか、同じ姿勢のまま西へ向かって動き出した。黒雲の背景の上だからよく見える。私は円盤にも葉巻型というのがあるのを知っていたから、それだな、と思った。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

宇宙食「空飛ぶ円盤」(三島由紀夫氏)#2

空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらわれることはまちがいがない。それが大てい短い間のことで、目撃者も少なく、その目撃者の多くには科学的知識も天文学的知識も期待できないから、堂々たる科学的反駁を加えられると、自分の見たものに自信がなくなって、はっきりこの目で見たものも妄想のような気がして来るであろう。こうして葬り去られた目撃例は少なくないにちがいない。

或る日のこと、北村小松氏から電話があって、5月23日の朝5時ごろ東京西北方に円盤が現れるかもしれない。という情報が入った。

私は毎晩徹夜仕事をしているので、午前5時といえば、寝に就く時間である。4時半になると、待ちかねて仕事も手につかないでいた私は、妻を叩き起し、寝ぼけ眼の彼女を促して屋上へ昇った。私は双眼鏡を肩にかけ、妻はカメラを携えていた。

屋上はうすら寒く、そこへ昇るか昇らぬかに、日が東の屋根から顔を出した。

日の出というやつは、食紅をまぶしたお餅のようなもので、屋根に引っかかってなかなか上って来ない。ようやく屋根を離れるころ、真紅の色は卵黄いろに変り、そうなるとギラギラして、正視することができなくなった。空は完全に明るくなり、地平線上だけが薄紅と灰色におぼめいて、天頂はすでにあざやかな青である。すっかり夜が明けた空には神秘が少しも感じられないので、私はガッカリした。

屋上の片はじに坐って、西北方を眺めている。眼下の畑の緑が鮮明に、鯉のぼりの矢車がきらめいている。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

宇宙食「空飛ぶ円盤」(三島由紀夫氏)#1

婦人倶楽部に連載した三島由紀夫さんのエッセイの一部を紹介します。(連載日付は不明です。)

社会料理三島亭 宇宙食「空飛ぶ円盤」

夏になると、寝転がって満天の星空を眺めるというような心境に誰しもなるもので、そのときの私のきまって思い出すのは「空飛ぶ円盤」のことである。

私が「空飛ぶ円盤」に本格的な興味を持ち出したのは、フランスの新聞記者のエイメ・ミッシェルという人の書いた「空飛ぶ円盤は実在する」(邦訳)を読んでからで、この本を読んだ以上、円盤の実在は疑いの余地がないように思われた。ところが大岡昇平氏は、パリでこの本の原書を読んでから、「円盤なんてマユツバ物だ」と確信するにいたったというのだから、同じ本でこれだけ反対の影響を及ぼしたところを見ると、田辺貞之助氏の邦訳がよほどの名訳なのにちがいない。

一旦興味を持ち出すと、世間には空飛ぶ円盤の熱狂的なファンが相当多いことに気がついた。この道で有名な北村小松氏とは文士劇の楽屋でお初にお目にかかったが、氏が非常に残念がっておられるのは、氏自身が一度も実見しておられぬことで、その点では、空飛ぶ円盤を鎌倉山ですぐ目前に見られた森田たま女史にかなう人はいない。女史からその実見記を逐一うかがうと四十分たっぷりもかかるほどで、その描写は精細をきわめている。ニューヨーク在留の猪熊弦一郎画伯も、円盤狂では人後に落ちず、私との話は円盤のことばかり。今日も、むしあついニューヨークの夏の深夜、夜ごとに送られる円盤関係ニュースの特別番組を持つラジオに、いっしんに耳を傾けておられるのであろう。

私も一度どうしても大型のかがやかしい円盤が、夏の藍いろの星空の只中から、突然姿を現してくれるのを期待して、夏になると、双眼鏡を片手に、自分の家の屋上に昇らずにはいられない。これをわが家では「屋上の狂人」と呼んでいる。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button