日本初のUFO110番開設記「特設電話を開設」#2

s-UFO12以上のような観点から、多くの人々の反応や質疑、目撃談を得たいと思い、今回の「UFO110番」開設にあたって、今年の1月ごろから準備に入った。

マスコミ関係もまず3月11日の「東京中日スポーツ」紙が「目撃者はダイヤルを回せ!世界初のUFO110番」という見出しのもと、大々的に報道して、まずまずの滑り出しとなった。

また幸運にも、3月14日夜、日本テレビ【NTV】本館近辺でのUFO目撃報告が局に相次ぎ、たまたま在局していた矢追ディレクターも目撃、早速カメラにおさめた。そのフィルムが3月16日朝のニュースで報道され、その際にUFO110番の電話番号が画面中央に大きく映し出された。

アナウンスではっきりと3月21日と22日に実施と放送したにもかかわらず、ニュース放映の途中から、私の自宅の電話がガンガン鳴りだした。私と妻は電話の応対にかかりっきりとなり、食事もとれない有り様。あまりの反響に本番の両日が思いやられた。

さらに、共同通信の社会部がこのニュースを全国各紙に流したこともあって、地方紙からの問い合わせが殺到。加えて、東京都内の共同系の新聞も3月17日、18日の2日間にわたってとりあげたため、早々と新聞購読者からの問い合わせもあった。

こうしたマスコミ報道に驚いた当地域担当の電電公社白金局から、当日の電話殺到を予想した彼らは、混乱を心配して、臨時電話を最低3台は増設するよう懇請に来たのだった。

しかし、費用もかかることだし、一本だけに勘弁してもらったが、電話局側も殺到の場合には、テープレコーダーを準備して対応してくれることになった。これは、3台の電話が全部話し中の時、テープで事情を説明して、相手に大気してもらうものらしい。これが、22日に大きく役立つとは当時はまったく予想しなかった。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

日本初のUFO110番開設記「開設の目的」#1

s-UFO121981年「UFOと宇宙」6月号に掲載されたものです。(UFOライブラリー代表 荒井欣一)

去る1981年3月21日と22日の2日間にわたって「UFO110番」を開設した。これは一般の人からUFOに関するあらゆる疑問、目撃、体験などを電話で受けつけ、待機中のスタッフが応答するという日本初の試みである。

東京のUFOライブラリーを中心に北は札幌から南は沖縄まで、全国主要都市にある14の研究団体が連携態勢をとった結果、2日間の電話件数は全国合計で400件近くにのぼり、東京では2日間で130件、前後10日間で約300件を数えた。

こうした多大な反響を得たことは、この企画が一応成功したとみているが、反面、準備不足、連絡不足、PR不足など問題点も多かった。

私の場合を例にとっても、この日のために整備しておいたかなりの量の資料を、まったくといっていいほど役立てる機会がなかったのだ。

UFO110番構想は、当ライブラリー建設以前からの計画だったが、開館後の諸資料整備などに時間がかかり、結局今回の実施まで約1年半ほど経過してしまった。

この企画の目的の第一は情報収集にあるが、同時に、この機会に一人でも多くの人がUFOに対する誤解や偏見を捨ててUFOを正しく理解してほしいと願いもあった。

かつて私は、UFO目撃者から「UFOについて話すと、バカにされたり、精神状態が疑われたり、子供っぽいと非難されたり、果ては気違い扱いされるのがこわくて、目撃したことを誰にも話していませんでした」といった内容の電話をたびたび受けていたのである。

いまだ、UFOへの無理解者が多いことを、身をもって知っている私としては、UFO110番を通して、できるだけ大勢の人と、諸外国のUFO事件などを話し合いながら、UFOへの関心を今後も持ち続けていくよう強く呼びかけていくつもりだ。

UFOライブラリーにも、小学生を含めて若い人たちからは、ごく初歩的な質問が多く寄せられている。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

研究誌「宇宙機」創刊30号記念特大号の表紙について

s-宇宙機創刊30号2機関誌「宇宙機」の創刊30号に記載された「表紙の絵解説」をそのまま記載しました。

創刊30号記念特大号の表紙に掲げた宇宙人の絵は、世界各地で目撃された報告を資料として池守与志男氏に画いてもらったもの。出来るだけ資料に忠実にしました。但し目撃談そのものが全く信用出来るものかどうかは尚これらの絵の一部は既に少年クラブ(講談社発行)、生命の不思議(新潮社発行)などに発表済

[上段左]1953年8月メキシコシティから余りはなれていない処であった宇宙人。縫目のない灰色のコールテンズボンをはいていて柔和な顔をしている首の所には金属製のカラーと黒く光る小箱がついていた。

[下段右]昨年イギリスノーホークの草原に着陸した宇宙人。耳が長く頭からアンテナ様のものが出ていたとのこと。

[上段中]カナダのスティーブ・ロック製鉄会社の機関誌に載っていた目撃談をもとにしたもの。1950年7月2日オンタリオ州ソウビル湾でおこったもので小人約10人。膝の関節が後ろにも曲がるらしかったとのこと。

[上段右下段中]1954年秋フランスの各地に着陸した円盤から出て来たといわれる宇宙人。その代表的なもの。

[下段左]1954年12月南米ベネズエラで起こった事件で、地球人に襲いかかってきたどう猛な宇宙人。この絵はちょっと愛嬌がある。

参考文献 日本空飛ぶ円盤研究会 宇宙機 創刊30号記念特大号

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#10

s-荒井欣一(T氏)あの時は、JFSA同窓会とかで、星新一さんや柴野さんなど昔のメンバーもおいでになってましたね。ところで、荒井先生の見解ではどうなんしょう。ヒューマノイドというのは友好的なんでしょうか?

(荒井)私は友好的だと思いますが…。

(T氏)でもアダムスキーは容認されないでしょう?

(荒井)ええ、アダムスキーの話は科学的な検証に耐えないと思いますね。また、友好的といってもアダムスキーのいうような、我々を援助するとか、そういうおせっかいなものじゃなくて、いつか我々と何らかの交渉をもてる相手だという意味です。そういう将来のユメがあるから長い間やってるんですよ。侵略的ないとはないように思いますねえ。

(T氏)まあ侵略が目撃だとすればとっくにやってるはずですね。

(荒井)そうだね、アブダクションにしても、必ずもどしてくる、殺傷したという例はやはり少ないです。

私はこれから日本でも本格的なコンタクトが発生すると思うね。4年前に宇宙人対策委員会というのを作りまして、まだ実際には機能していないんですが、綱領も条文も草案はできているんですよ。それとコンタクト・マニュアルというのを作る必要があると思って、もう事例だけは200種類ほどまとめてあるんです。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#9

s-荒井欣一(T氏)現在、並木伸一郎さんの主宰する日本宇宙現象研究会(JSPS)の顧問を引き受けておられますが、並木さんのグループとの出会いはいつ頃ですか?

(荒井)ええ、再びあちらこちらにボツボツ書き始めまして、そのうち昭和47年、ちょうどUFO25周年の年がやってきたわけです。それで何か面白い企画をやってみようと思って、品川の公会堂でUFO講演会を開いたわけです。会としては休会したままですから、すべて何から何まで自分一人でやりました。まあ、女房が手伝ってくれましたし、当日の受付は会社の連中に応援を頼みましたがね。講師には高梨さん、南山さん、平野さん、柴野さんにもお願いして来てもらいました。この催しがたまたまNHKなんかで取り上げられ、朝日新聞の催し物案内の欄にも出ましてね、おかげさまで当日は押すな押すなの大騒ぎになりまして、公会堂からも消防署がうるさいので何とかしてくれなんていわれたぐらいです。

(T氏)この翌年ぐらいから、ちょっとUFOブームになりましたね。

(荒井)そうなんです。それまでも目撃事件があれば新聞の囲み記事程度にはなりましたが、やはり大きな話題として週刊誌なんかがとりあげるようになるのは、この後です。我田引水になるかもしれないけれど、確かにこの講演会なんかがひとつのキッカケになったといえます。まあ、こう言うと悪いですが、ユニバース出版がスタートしたのもこの後ですからね。

(T氏)当時としては画期的なイベントだったと言えますね。

(荒井)ええ、それでまたちょうどその頃、並木君なんかの若いグループもできかけてきた。かれらは平田さんとはつながりあったけれども、私とは面識がなかった。この講演会に並木君や志水君が来て初めて知り合ったわけです。志水君は予約を締め切った後にだったんですが、受付で強引にねばって入ったそうです。名刺には「会長」とかなんとか書いてあってビックリしましてね。。それから彼らが協力して日本宇宙現象研究会を作るんで、顧問になってくれというんで、まあ名前だけで何もできないよといって引き受けたわけです。

この翌々年の昭和49年にもやはり品川の公会堂で「ヒューマノイド講演会」を行いました。その後は一昨年、霞が関ビルの36階で日本で初めての「UFOフェスティバル」を12日間開催したり、もう、このあたりのことになると皆さんご存知でしょう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

UFOふれあい館の宇宙人キャラクター

ご当地キャラクターがブームですね。ご当地キャラクター協会によると、ご当地キャラクターの定義は、

・ある特定の地域や、その地域の特産品、観光地、イベントなどをPRする目的で誕生し、活発に活動をおこない、地元愛を持って元気や笑顔溢れる地元活性化を達成しようとしていること。
・イラストではなく実物が存在すること。ただし、人間の皮膚に似た外観が無いこと。

とあります。残念ながら、宇宙人キャラクターはイラストのみで実物は存在しないので、ご当地キャラクターには該当しないようですね。

添付画像の「UFOふれあい館 宇宙人大図鑑」には、UFOふれあい館の宇宙人キャラクターが書かれていて、宇宙のどこから来たのかなどが分かるようになっています。UFOふれあい館には10体のキャラクターがいるんですよ。ちなみに一番人気はわたくし「U-タン」ですが…(ドヤ顔)。

宇宙人キャラクターは、山頂までのUFO道(遊歩道)に石像で出没して、山頂までの道案内をしてくれます。宇宙人キャラクターは缶バッチにもなっていて、UFO物産館で購入できます。

なお、「UFOふれあい館」のツイッターはこちらです。更新時を「UFOの里ブログ」の更新時をお知らせしていますので、御活用ください。 https://twitter.com/info_ufo

宇宙人大図鑑(参考)

 

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「画期的だったUFO25周年記念講演会」#8

s-荒井欣一(T氏)そして、再び活動を再開されたのはいつ頃ですか?

(荒井)そう、昭和35年に休会してから5年ほどはこれといって何もしなかった。それが昭和40年ごろかな、銀座通りを歩いていると、一緒に会をきりもりして頑張って下さった柴野拓美さんにバッタリ出会ったんですよ。「どうしてるんだ」と言うから、「いやあ、もうUFOは止めようかと思ってるんだ」というと、柴野さんは、そんなこと言うなよ、というんだ。今イエナに行ったら面白いUFOの本を見つめたからぜひ読みたまえというわけだ。それは「オフィシャルUFO」の特集版でした。なるほど買って読んでみると、この5年の間にずいぶんいろんな事件も起こっていて、たいへん面白かった。こちらは海外とも交流を断ってましたから、知らないニュースもずいぶんある。それで、こういうものをベースにして、まだ研究を続けている人や、これから始める人たちにも協力しようかと思いなおしましてね、再びいろんな資料や本を漁り始めたわけです。

すると、たまたま神戸の平田留三さんが高梨さんと分かれて日本UFO研究会というのを設立されまして、彼が機関誌に何か書いてくれと言ってきたんですよ。それでまあ、私は高梨さんに対して遠慮もあったんで、最初はペン・ネームで書き始めたんです。今ではお二人も仲良くつきあっておられますが、平田さんは近代宇宙旅行研究会の理事の一人で調査部長をしておられたのが、高梨さんの運営が独善的だというので、いわばケンカ別れして独自に一派を構えられたといういきさつがありましてね。私はどちらの肩をもつというわけではないんで、ペン・ネームで書き始めたわけですが、そのうちにお二人はそれぞれの機関誌上で相手の攻撃を始めたんで、これはイカンと思って、私が間に入りましてね、それで、どうせ私が書いてるってわかってきましたので、ペン・ネームをやめて、荒井欣一の名で「UFO事件の問題点を探る」というのを10回ばかり連載したわけです。それで、これがキッカケとなって、会は休会のままですが、個人として再び活動するようになったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#7

s-荒井欣一(荒井)また、昭和33年には、悪名高い警職法が国会に上程されました。あの法律によってUFOの研究まで規制される可能性があった。何かふしぎなことを研究して、世の中を不安に落し入れるものだ、というような誹謗もありましたしね。われわれはそれに対して、UFOの研究こそ人類の将来を決定づけるもっとも重要な問題だ、それを一片の法律によって葬り去られてはかなわないと思って反対声明を出しました。これは朝、毎、読の新聞にも報道されましたよ。もちろん多くの人が反対したので、わたしたちの声明がどれほどの効果があったかわかりませんが、ともかくあんな法案は廃案になってしまったわけです。

今のUFO研究団体というのは確かに科学的な研究は地道にやっているかもしれないけれど、こういう社会に問いかけるという姿勢が欠如しているように思います。

(T氏)それだけ先駆的に、熱心に活動されてきたのに、休会を余儀なくされたときは残念でしたでしょう。

(荒井)ええ、一時は千人近くいた会員がだんだん減りましてね、財政は大赤字になるし、体力的にも精神的にも疲れましてね、いったん集めた会費をお返しして休会にしたんです。

(T氏)やはり宇宙友好協会(CBA)問題が影を落とした。ということはありますか?

(荒井)CBAもそれなりに立派なところもあって、我々が持ってないような海外の資料も機関誌に掲載してました。それはよかったのですが、コンタクト・ストーリーを無批判に受け入れ地軸が傾くか宇宙連合が助けに来てくれるという騒動を経て、どんどんおかしな方向へ行ってしまいましてねえ、赤外線宇宙交信機なるものの発明者であるG・H・ウィリアムスンという妙なアメリカ人を彼らが招聘したときには、公開質問状をぶつけてみいたのですが、まったくナシのツブテ、これはこのままいくとUFO研究の危惧だというので、「UFOの研究の本道」という声明文を発表して、我々の立場を明確にしたのです。

まあしかし、こちらがある意味で固苦しいのに対して、あちらは面白いといえば面白いですからねえ、それにもう宗教的な熱狂性を帯びてましたから、こちらの会員でCBAに乗り換えた人もいるでしょうし、あるいは私たちが危惧したように、CBAの狂態を見て、しょせんUFOなんてというので脱落してしまった人もいたのかもしれません。

まあ、私も病気になるし、金もなくなちゃったし、休会といっても、ホントのこというと、円盤はもうこれで終わりにしようとまで思いました。CBA問題以外にも、安井清隆さんのコンタクトも問題なんかもあって、どうもみんなハッキリしないことばかりではないか、という絶望感にもとらわれましたからね。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「一時は円盤はこれっきりにしようかと…」#6

s-荒井欣一(T氏)マスコミはとかくそういうことが多いようですね。それからさきほども話題に出た「宇宙平和宣言」ですか、あれを始めとして、よく声明書のようなものを出されてますね。

(荒井)ええ、最初に申し上げましたように、科学的な追求ということはもちろんいちばんの基本であり、たいへん大事なことですが、やはりそれだけではダメだと私は思います。UFOの存在そのものが、人類の将来にとって、たいへん重大な意味をもっている、そういう観点にたつならば、当然、社会に問いかけるという姿勢が必要でしょうし、一般大衆にもアピールするUFO研究でなければならない。それで機会あるごとに、自分たちの見解を声明書という形で発表したわけです。

(T氏)「宇宙平和宣言」には、JFSA以外の団体も署名しておられますね。

(荒井)ええ、ちょうど昭和32年7月にJFSA発足2周年記念の講演会を行いまして、高梨さんはじめ、他の研究グループの方にも来ていただきましてね、ちょうどいい機会だということで私が音頭をとりまして、研究会相互の協力を目的とする全日本空飛ぶ円盤研究連合を発足させたわけです。それで、あの「宇宙平和宣言」は私が起草したものですが、JFSAだけではなく、他の皆さんにも呼びかけ共同声明の形にしたのです。

毎日新聞に東京天文台長の宮地政司さんが、「円盤は飛ばず」という一文を発表されたことがありましたが、これがメンゼル説のまったくの受け売りでしてね、我々は、メンゼル説だけではUFO問題は解決しませんよということで、会員のみなさんの発言を含めて、「それでも円盤は飛ぶ」という声明文を発表しました。

また、昭和32年、ソ連が原爆を積んだロケットを月に命中させるという噂が外電で広く報道されましたが、このときには「月ロケット発射に関する要望」という声明書をソ連大使に手渡しまして、月にUFO基地がある可能性を訴えました。で、この我々の声がフルシチョフに届いたためかどうかわかりませんが、あれほど騒がれたソ連の月ロケット計画は中止になったのです。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button

荒井欣一氏にインタビュー「迷宮入りになった銚子の金属箔事件」#5

s-荒井欣一(荒井)それから日本軽金属と東洋金属へ行って見せたのですが「こんなものは作ってないし、また用途も不明」という返事でした。顧問をお願いしておりました糸川英夫博士のところへもって行くと、米軍の気象観測用ロケットに使うものではないだろうかとおっしゃるので、気象庁の観測部高層課へ行ったのですが、こんなものを気象観測に使うことはないという返事でした。

そこで、もうひとつの可能性として米軍がレーダーの防空演習に使ったんではないかと思いまして、アメリカ大使館に空軍武官のラモール少佐を柴野拓美さんといっしょに訪ねたわけです。すると、9月9日には銚子付近で演習があったが、問題の金属箔の落ちた7日にはやってない、またレーダー妨害用の金属箔を落とすが、これ一種類だけがかたまって落ちていたというのは解せない、またこのような箔を扱ったことはあまりないというんです。そしてともかく調べてみるから預かりたいというのです。それで、ともかく預けて帰ったんだが、1週間たっても1か月たっても返事がない。たまりかねて、再び乗り込みましたところ、「あれは米軍のものだった」という一点張りで返そうとしない。じゃあ何に使ったのかというと一切ノーコメントだったんです。

(T氏)へえー、それは奇怪ですね。結局、それっきり金属箔はもどってこなかったんですか?

(荒井)ええ、それで私はこの10年間というもの、あの金属片がてっきりなくなったものと思って悔やんでいたんですが、最近になってよく探すと少し残ってましてね。やはり警戒して全部は持って行かなかったんですな。もう一度あらためて分析してみるつもりです。

(T氏)新事実が分かりましたらぜひ本誌に発表して下さいよ。

(荒井)ええ、そうしましょう。それから、エンゼル・ヘアー事件というのもあったなあ。最近の本を見ると、エンゼル・ヘアーの写真として、ボクらが撮影したのがのっているけれども、あれはエンゼル・ヘアーじゃないんですよ。最近、山形県の学校の先生からエンゼル・ヘアーらしきものが落ちてきたので調べてほしいという電話が入ったのです。まあ、はじめのうちはみんな興奮しましてね。ところが現地調査してみると、はしに小さなクモがついていた。という証言がありまして古い文献を調べてみますと、「雪むかえ現象」というものがあるらしい。クモが気流にのって集団移動する。これが終わると雪が降るんですな。それでも、新聞なんかは面白半分にエンゼル・ヘアーということにしてしまった。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

Share Button