宇宙食「空飛ぶ円盤」(三島由紀夫氏)#1

婦人倶楽部に連載した三島由紀夫さんのエッセイの一部を紹介します。(連載日付は不明です。)

社会料理三島亭 宇宙食「空飛ぶ円盤」

夏になると、寝転がって満天の星空を眺めるというような心境に誰しもなるもので、そのときの私のきまって思い出すのは「空飛ぶ円盤」のことである。

私が「空飛ぶ円盤」に本格的な興味を持ち出したのは、フランスの新聞記者のエイメ・ミッシェルという人の書いた「空飛ぶ円盤は実在する」(邦訳)を読んでからで、この本を読んだ以上、円盤の実在は疑いの余地がないように思われた。ところが大岡昇平氏は、パリでこの本の原書を読んでから、「円盤なんてマユツバ物だ」と確信するにいたったというのだから、同じ本でこれだけ反対の影響を及ぼしたところを見ると、田辺貞之助氏の邦訳がよほどの名訳なのにちがいない。

一旦興味を持ち出すと、世間には空飛ぶ円盤の熱狂的なファンが相当多いことに気がついた。この道で有名な北村小松氏とは文士劇の楽屋でお初にお目にかかったが、氏が非常に残念がっておられるのは、氏自身が一度も実見しておられぬことで、その点では、空飛ぶ円盤を鎌倉山ですぐ目前に見られた森田たま女史にかなう人はいない。女史からその実見記を逐一うかがうと四十分たっぷりもかかるほどで、その描写は精細をきわめている。ニューヨーク在留の猪熊弦一郎画伯も、円盤狂では人後に落ちず、私との話は円盤のことばかり。今日も、むしあついニューヨークの夏の深夜、夜ごとに送られる円盤関係ニュースの特別番組を持つラジオに、いっしんに耳を傾けておられるのであろう。

私も一度どうしても大型のかがやかしい円盤が、夏の藍いろの星空の只中から、突然姿を現してくれるのを期待して、夏になると、双眼鏡を片手に、自分の家の屋上に昇らずにはいられない。これをわが家では「屋上の狂人」と呼んでいる。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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空飛ぶ円盤と人間通~北村小松氏のこと~(三島由紀夫氏)#2

世俗的に言えば、氏はあんまり早く超越してしまったと思われるふしがある。今、私の机上には、氏の長編小説「銀幕」や、1920年代の無声映画のシナリオ集や、トーキー初期のシナリオ集(「マダムと女房」を含む)が置いてある。そこには映画という、当時のもっとも新奇な神秘的な玩具に熱狂した氏が躍動している。しかし一等面白いのは、氏は小型映画用シナリオとして書いた掌編で、その「望遠鏡」という一編では、シリウスの伴星を見ようと志して、超強度望遠鏡を発明した男が、半裸の汗だくで、望遠写真をやっと写したところが、一点の黒点のある平面のみが写っており、あとで細君から、それはあなたの背中のほくろの写真じゃないかと言われ、男の溜息の字幕でおしまいになる。

「ああ、今度はあまり遠くが見えすぎたのだ?」

遠い恒星よりももっと遠い自分の背中が見えてしまう目を持った男、その男の不幸を、そのころから北村氏は知っていた。

飛行機も映画も、自動車も円盤も、すべて氏の玩具にすぎず、氏の本領は人間通だったのかもしれない。

それを証明するのは、婦人公論の5月号に出た、氏の「わが契約結婚の妻」という文章で、私はこれこそ真の人間通の文章だと感嘆し、早速その旨を氏へ書き送ったが、今にしてみると、それは氏の心やさしい遺書のような一文であった。

それは道説的な表現で、奥さんへの愛情と奥さんの温かい人柄を語った文章であるが、人間が自分で自分をこうだと規定したり、世間のレッテルで人を判断したり、自意識に苦しめられたり、そういう愚かな営みを全部見透かして、直に人間の純粋な心情をつかみとるまれな能力を、氏が持っていることを物語っていた。

そのためには、飛行機や空飛ぶ円盤も無駄ではなく、これら飛行物体が、氏の、人間に対する澄んだ鳥瞰的な見方を養ったのであろう。北村さん、私はあなたが、円盤に乗って別の宇宙へ行かれたことを信じている。 作家 三島由紀夫

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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空飛ぶ円盤と人間通~北村小松氏のこと~(三島由紀夫氏)#1

昭和39年4月30日付け朝日新聞に掲載された三島由紀夫氏が書いた記事です。

北村小松氏と親しくなったのは、わずか3、4年前のことである。もちろん少年時代から氏の文名は飛行機と共に知っていたし、わたしが文士になってのちも、お互いに文士劇の楽屋の仲間であった。しかし、奇妙なことに、氏と本当に親しくなったのは、空飛ぶ円盤を通じてなのである。

あらゆる空中現象に関心を持つ北村氏は、もちろん円盤にも深い興味を寄せていたが、まだ一度もわが目で見たことがないのを残念がり、同じ思いの私と、嘆きを分つことになった。ついに二人とも、どうしても円盤を見たいという熱情にかられ、某協会の円盤出現予告にある時刻を信じて、夏の宵々、わが家の屋上へのぼって、氏が東の空を受持てば、私は西の空を受持ち、熱い希望にあふれて虚しい時を幾度かすごした。そのうちに二人ともあきらめてしまったが、円盤関係の原書を渉猟している北村氏に、その後もたえず、私は教えを乞うことになった。

それは秘密結社のニュースのようなもので、「何か最近面白いニュースはありませんか」と私は氏をつかまえては訊くのであった。氏も、こういう、仕事を抜きにして風流人の付き合いを喜んでおられたようで、私ばかりでなく、氏は最後まで、空に興味を持つ青年たちの友であった。

私は今、いい小父さんを亡くした悲しみで一杯だ。今にしてわかるのだが、とうとう円盤を見ることができなかった代わりに、私は円盤よりも貴重な一つの純粋な交遊を得たのである。氏の内の決して朽ちない少年のこころ、あらゆる新奇なもの神秘なもの宇宙的なものへの関心は、そのナイーブな、けがれのない熱情は、世俗にまみれた私の心を洗った。氏は謙虚なやさしい人柄で、トゲトゲした一般小説家の生活感情なんぞ超越していた。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOからSFへ「柴野拓美氏」#3

翌58年の1月、星さんの提唱で「編集委員会」と称する月例会が発足したが、これはむしろわたしのために雑誌の赤字を埋めてくれる醵金組織みたいなもので、同人宅のまわり持ちでスタートした毎月の例会は、主として常連十数人の楽しい雑誌会に終始した。のちに、小松左京さんから、「日本SFの卵が純粋培養された時代」と位置づけられた時期である。この例会の第五回にはじめて顔を出した野田昌弘さん(当時学習院大生)の印象記(65年、第四回日本SF大会プログラムブック所載)の一部を、以下に引用してみよう。

━次の日曜日、胸をどきどきさせながら、西武線のなんとかという駅を降りて、イイヅカさんの家をさがした。今にして思うと、光瀬龍氏の家だったわけである。

ずばぬけて機知にとんだおしゃべりをするすごくいかしたおじさんが星新一氏、アメリカで有名なSF作家たちとじかに会ってきた矢野徹氏、ふたこと目にはマザーマシンとフロイトがとびだす眼鏡をかけたメル・ファラーみたいな葉山速雄氏。ぼくは隅っこにきちんと坐っておとなしくしていた。

間もなくあらわれた柴野氏は、たしかに白いダブルの背広を着ていて、すごくイキなオジサンにみえたが、話しているとどうやら今、ぼくと同じ電車できて同じ道を通ってきたらしいのだ。なのに途中でぜんぜんあわなかったのを、氏はこともなげにいった。

「あ、それじゃどっちかが別の空間を通ってきたんですよ。」ぼくはそれをきいたとたん、胸があつくなった。ウウム、いたな!ついにみつけたぞ!ミュータントとミュータントいやエスパーとエスパーが生まれて初めて出会ったら、こんな気持ちになるのではなかろうか。七面倒な理屈なんか不要、全部ツーカーで話が通じあう相手を、ぼくははじめてみつけだのだ━

ところで、この会合の少し前、何人かが集まって会場案内のハガキを手分けして書いているとき、星さんが、道筋を示す地図の矢印に「タイタン五世邸」と書きそえた。それにはちょっと説明が要る。宇宙塵10号(58年3月)に発表された光瀬さんのSF処女作の題名が「タイタン六世」で、これは政治コンピューターの反乱を描いたものだった。その光瀬さんは当時まだ独身で、つまり、会合の場所は、そのお父上のお宅だったわけである。

そしてこの「タイタン六世」が、その夏に行われた第一回掲載作品コンテスト投票で第一席を占めたのだ。(これにも説明が必要だろう。このときの第二席は星新一「セキストラ」、第三席が同じく星新一「ボッコちゃん」だった。おそるべき顔ぶれといおうか、日本SF事始を物語るエピソードのひとつである)。

こうして光瀬さんの創作活動がはじまり、ちょうどそのお勤めさきがわたしの家の近くだったことから、やはり近くにおられた今日泊亜蘭さんをまじえて個人的なおつきあいも深まっていき、のちに65年5月には「柴野拓美をはけます会」を平井和正さんと協力して開いてくださるなど、いろいろお世話になるのだが、残念ながら紙数が尽きたようだ。

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOからSFへ「柴野拓美氏」#2

荒井さんがそのように感じられなかったとすれば、これはまさしく大人物の相だし、感じながらも大目にみてくださったとすれば、まことに寛容この上もないし、だまってやらせておくのが将来みんなのためになると見抜いておられたとすれば、これまたおそるべき卓見だったとしかいいようがない。(実際には大目にみてもらったどころではなく、荒井さんの紹介で新聞や雑誌に書かせてもらうUFO関係記事の原稿料を、わたしはそっくり「宇宙塵」につぎこんでいたし、奔走時の購読者の過半数は荒井さんの会の人たちだったから、むしろ間接的に大きな援助をうけていたといわなければなるまい)。

ところで、私は根が軽率なのか、悪気はないのに、そのあともいろんなところで、そういった造反的行動に奔るくせがぬけない。そしてしっぺ返しをくって痛い思いをするたびに、あらためて荒井さんの人柄が思い起こされるという次第だが、もっともそんなことがいちいち思いあたるようになったのは、SFの世界がある程度ひろがって(同時にわたしも年をとり分別ができて)からのことである。初期のころの、運命共同体的な仲間うちのつきあいは、まことに大らかなものだった。独特な才能を持ったもの同士の「認め合い」と疎外者を出さない「甘え合い」がスムーズに両立した、一種の蜜月時代であった。

当時のムードを、宮崎惇さんのレポート(宇宙塵20周年を祝う会プログラムアップブック所載)からひろってみよう。

━7月10日、Mは初めて、柴野拓美、斎藤守弘、星新一の三人に会った。「日本中で、ここほど科学小説を集めてあるところはないだろう」という柴野の書斎は、たしかにそうの言葉にふさわしく、田舎の片隅でお山の大将を気取っていたMを圧倒するに充分だった。

お山の大将といえば、柴野自身も、「同人グループを結成するまでは、ぼくも御多聞にもれずお山の大将だった。自分ほどの分類に詳しいものはいないだろうと思っていた。ところが集まってきた仲間たちと話し合うにつれ、その考えはくずれていった。知識の点ばかりではなく、それについていかに多くの考えかたや方法があるかをあらためて思い知らされた」といっている。

SFは小説ジャンルとして最も新しいものの一つであり、また特殊なものでもあったため、それに手をつけたものたちはとかく「お山の大将」になりがちだったわけである。柴野の言葉は「宇宙塵」に参加した同人の誰にでも当てはまることであった。

のちにショートショートで名をはせる星新一の口からは、絶えずユーモアがただよった━文中の「M」といううのは、もちろん宮崎さん(長野県在住)のことである。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOからSFへ「柴野拓美氏」#1

UFO評論家の柴野拓美さんが昭和55年「小説CLUB」9月号に掲載した随筆の内容です。

思い出話はなつかしい。いい思い出は楽しい、にがい思い出はそれなりにというと、流行遅れのコマーシャルだが、こと荒井欣一さんに関するかぎり、わたしに残っているのは、いい思い出ばかりである。

この点は、昔からの友人の誰にきいても同じだ。ただ、わたしの場合は、その中に、少しばかりうしろめたい気持ちがまじってくる。荒井さんの「日本空飛ぶ円盤研究会」にとびこんで、先輩格の小林敬治さんや鵜沢甫さんなどもいっしょにお手伝いをはじめた当初から、わたしが熱意をもやしていた対象は、UFOよりもSFであって、どうしても「研究」の本道である目撃例の収集分類よりは、綜合的なデータの空想科学的な解析のほうに比重がかたよりがちだった。そしてそのあげく、入会から約一年後の1957年春、わたしは、会の中枢メンバーだった星新一さん、斎藤守弘さん、光波耀子さんなど貴重な人材を何人か引き抜いて、SF同人誌「宇宙塵」を創刊、いわばのれん分けみたいなかたちで独立してしまった。(UFO関係外からの初期メンバーとしては、矢野徹さん、瀬川昌男さん、草下英明さん、石川英輔さん、宮崎惇さん、光浦龍さんなどがあげられる。)

いいわけを許していただくなら、もともとUFOグループの中にSFの好きな人たちが大勢あつまっていたわけだが、そういえばいまだに世間ではUFO愛好者とSFファンとがかなり混同されているらしい。実のところこれはUFOとSFの双方にとって、たいへん迷惑な話なのである。もちろん、まったく無関係だとはいいきれない。SFに登場する異星人の宇宙船が、古典的な砲弾形から、1947年のケネス・アーノルド事件以降いっせいに円盤型に模様替えしてしまったのは、まぎれもない事実だし、またUFO理論の中には、タイムマシンや重力推進などSF作家の空想の産物が、大幅にとりいれられている。しかし本質的には、SFは一個の文芸ジャンルであって、現象を追うUFO研究とはあいいれないし、UFO側としてもその目的は事実の探求にあるのだから、SFのつくり話といっしょにされるのは不本意なことであろう。

とまあ、そんなごたくが並べられるのも、いまだからのことで、23年前の当時はまだそのあたりも混沌としていた。あとからみれば両者の分離は必然のなりゆきだったわけだが、それでも、荒井さんが糾合した勢力の中で、わたしが分派活動を起こしたという事実にかわりはない。

荒井さんの目からみて、これはやはり一種の「裏切り」だったのではなかろうか?(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOこそわがロマン「荒井欣一氏」#3

s-荒井欣一ここでひるがえって私が残して来たと思われるUFO界への足跡の2、3をおこがましくも紹介してみよう。

その一つは、32、33年頃の時代のUFO研究会は、社会的な動きの中に、自己主張を絶えず発表して来たことではなかろうかと思っている。その為にわれわれはいろいろな声明文を連発して来た。「宇宙平和宣言」「それでも円盤は飛ぶ」「月ロケット発射に関する要望」「警職法反対声明」「UFO研究の本道」等々。私達はこれらの声明を通じて私達の信念を披露し続けて来た。この中で「月ロケット」の声明文は駐日ソ連大使を通じて親善のかたちで当時のフルシチョフ首相に送られたもので、その後この問題が沙汰止みになったのはわれわれのアピールの賜物ではないかと希望的観測にすぎないが。

その2は「UFO年鑑」の発行ではなかろうか、UFO30周年の何等かの記念品をのこしたいという切なる希望から、独力で200頁以上に及ぶ年間を自費で刊行し得たことは、小生にとってまたとない記念碑となったが、更に来年も出してほしいという声に対しては全くやろうという気が起こらないのは、あまりの苦労の連続だった所為であろうか。

最後は何と言っても「UFOライブラリー」の開設にあると思う。50平方米約15坪の狭いフロアーながら、展示、談話、閲覧室を設け、書庫もあり、一千点以上の30年間に亘って営々として集めたUFO関係資料を展示、入場料無料で現在一般公開しているが、世界でも恐らく初めての試みであるかもしれない。しかしこのライブラリー開設に当たっては奇蹟としかいえない様な好機が連続して起こったことは今以って不思議としか思えないのである。「天は自ら助くるものを助く」を全く地で行った様なものであったからだ。

ところでUFOの謎は益々混迷の度を拡げつつある。しかしルソーがいっている様に「真実は時として地中深く埋められてしまうことがある。しかしある時期が来れば、巨大なエネルギーを結集して爆発的に地上に躍り出るものである」という言葉を信じたい。また、私がかくもUFOの科学的究明に熱意を傾けているのも一つ理由があるからである。この願いを一番良く知っておられるのが柴野氏御夫妻ではなかろうか。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOこそわがロマン「荒井欣一氏」#2

s-荒井欣一このあたりでUFO30年を振り返ってみると、やはりあの研究会創設当時の苦労がまざまざとよみがえってくる。そしてもしも当時、UFO研究会に柴野拓美氏という強力なアドバイザーがいなかったなら、果たしてUFOの研究が、今日の姿で残っていたかどうか甚だ疑問にさえ思えるのである。

柴野氏との最初の接触は、UFOにも大変興味をもっていて私達を指導して下さった作家、北村小松氏の御紹介だったと思う。当時氏は高校の教諭をしておられたが、理論的な面においてわれわれは大いにバックアップして下さった。また、創設直後発生した銚子市の金属片落下事件の際は、その物体の鑑定のため、私と一緒にあの暑い街中を金属片を持って、あっちの会社、こっちの研究所等々と大分引っぱり回してしまった。最後にはアメリカ大使館まで行って空軍の参謀に会うなど、解決のメドを探して飛び回った記憶が、今も鮮やかによみがえってくる。

研究会は創立以来、しばしば会合を開いてUFOの検討を続けていたが、その中には星新一氏や斎藤守氏、高梨純一氏等がしばしば顔を見せていた。SF的な空想がしばしば満場を笑いのうずに巻き込み、和やかな会合が続いたが、そのうち、柴野氏を中心とするSF愛好の人達は、「科学創作クラブ」を設立し、同クラブに機関誌「宇宙塵」はわが国SF界の源流になったことは既に多くの人が語りついでいる。

柴野氏は同クラブを結成してからも、私達とは親密な関係を続いていたが、34年頃、氏は病気で一時入院されていたことがある。氏はその入院中のつれづれなるままに「日本空飛ぶ円盤の歌」を作詞して送って下さった。このことは余り世に知られていない事実であろう。

その第一節に「世にさきがけの面高く 蒼空仰ぎUFOの 研究会は生まれたり」という格調高い一節があるが、私は大変この詩が気に入っている。最近、テレビのCMで「さきがけとは、道を開くことなり」といっているが、UFOの研究の道が今後どのように開けて行くか、そしてUFOには、地球のさきがけになる重大なポイントが隠されているような気がしてならない。

一昨年NHKが6月24日にタイミングを合わせて、朝のテレビロータリーで、「UFOこそわがロマン」と題して約15分間UFOの研究グループ等の紹介などをしてくれたが、その画面の中で、NHKは世にさきがけて、「もしUFO搭乗者に会ったら、どの様な対応が出来るか」という模擬実験まで行ってくれた。出演者の真剣な対応が、かえって爆笑の対象となったが、大変貴重な体験ではあった。最近マスコミ関係もこの様な受入れ方をして来るなど、時代は急速に変化していることを感じとることができよう。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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UFOこそわがロマン「荒井欣一氏」#1

s-荒井欣一UFO研究家の荒井欣一さんが昭和55年「小説CLUB」8月号に掲載した随筆の内容です。

毎年、6、7月頃になるときまってUFOとか、幽霊とかの話題が世上を賑わすが、私にこの稿のお声がかかったのも、超常現象研究家の南山宏氏の時期を見はからってのリレーではなかろうかと思っている。しかし、丁度この時期は私にとっては願ってもない季節なのである。特にここ数年来、私は6月24日を「UFOの日」と自分勝手に決めて、毎年この日の前後にいろいろな催しものを行ってきている。少しでも多くの人にUFOを知ってもらいたいためである。

ところが、6月24日というのは一体どんな日なのだろうか。UFO研究家以外では知らない人が多いと思うが、私達にとっては、UFO元年というべき記念に日なのである。

この事件についての詳しいことは省くとして、要するにUFO、当時空飛ぶ円盤といわれていたが、いわゆるフライング・ソーサーという名称が電波にのって、世界中に拡散した日なのである。最近はこの「UFOの日」が近づくとマスコミのあちらこちらから、今年は何をやるんですかとお問い合わせがあるようになってきた。

こういうお尋ねがあると私は何も計画を持ち合わせていなくても、何かやらなければ悪いような気になってしまう。そこでついつい会社の忙しい仕事の合間を縫って動き出してしまうのである。したがって今年も、本誌が店頭に並べられる頃、ささやかな行事がUFOライブラリーを中心に行われている筈であり、また、地元五反田のデパートでも、その日の午後10日間位を特に提供していただいて店内に大型のUFO写真パネルを飾って下さることになっている。

最近では、「UFO」と言えばあまり詳しい説明をしなくても、子供さんからお年寄りまで「あ、空を飛んでいる不思議な物体でしょう、本当に宇宙人っているんですかね」位の知識をお持ちの方が多くなってきた。時代が変わればかわるものである。

私達が昭和30年、UFOの研究会を結成した頃は、それこそ、世人からウサンくさい目で見られていたに違いないと思う。先日、星新一氏の交遊録が単行本になったので拝見したら、その中に小生のことも、ほんの僅か紹介されていた。当時、氏は当会の会員であったが、氏でさえも、私が極めて普通の人間であることに驚きを感じておられるようであるが、UFO研究会は何か変人・奇人のあつまりのように世人は考えてきたのかも知れない。先号では南山氏が小生のことを大変な人格者だとおほめをいただいたが、それは私が実は普通の人と全く変わらないというパラドックスかも知れない。

ところで最近、小生の経歴が紹介されるケースが時々あるが、それが決まって、「わがUFO研究の草分け的存在」とか「UFO研究の元祖」とかはいいにしても、最も困るのは「UFO研究会の長老」と祭り上げられていることである。どうも長老という言葉は私には応しくないのではないか。長老となると7、80歳の白髪の老人を連想しがちである。実は私はまだ50歳半ばを一寸越したばかりであり、まだまだなのである。(つづく)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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かけがえのない同志「南山宏氏」#3

010301nori008-trans話がまたSF寄りになってしまったが、私がUFOや超常現象を考える場合、原点はあくまでSFにあるのだから仕方がない。むろんその種の現象をフィクションとして考えることではなく、SF的な発想や物の見方を一種の思考実験の道具、作業仮説としてこれらの現象を検証していくことが、最も有意義と考えているからである。

その意味で私の目をUFOという現象に開かせてくれた同志といっては失礼にあたる恩人が、この分野の大先輩であり、ほかならぬ前述の「日本空飛ぶ円盤研究会」の会長をつとめた荒井欣一さんである。この会は当時、三島由紀夫、北村小松といった有名人も参加したことで名をはせていた。まだヒヨッコ大学生だった私が、「宇宙塵」の会を通じて同研究会の末席にも加えてもらった時、すでに荒井欣一さんは、「円盤の権威」(当時はUFOという言葉はあまり使われなかった)としてジャーナリズムの注目を集めていた。そして現在もなお「UFOの権威」としてご健在である。

つい去年の秋、東京・五反田の自宅を小さいけれど立派な五階建てのビルに建て替え、その五階にこれまで収集してきたUFO関係の資料を展示する「UFOライブラリー」を開設された。UFO研究に関しては先進国である欧米にも、この類いのライブラリーはまだないはずで、世界的な快挙といえる。

残念ながら「日本空飛ぶ円盤研究会」は、もう十数年前に活動をやめてしまった幻の存在である。だが、荒井さんが日本のUFO研究界の中心であり続けていた理由は、その研究業績や会を組織し、運営していくオルガナイザーとしての手腕だけにあるのではない。

ひと言でいえば、おそらく荒井さんのあの何ともいえぬ包容力の大きい人柄のせいだと私は思う。決して強烈な個性の人ではない。むしろ謙虚でもの静かで、何でも柔らかに受け止めてくれる心の広さと誠実さ、それでいてシンは一本びしっと通っている、そんな感じの人である。この分野では私ははるか後輩なのだが、荒井さんは決して先輩面することなく、いつもまったく対等に応対して下さるので恐縮してしまう。私は生来議論好きな性格だし、アダムスキーみたいな「宇宙人会見者」ケースは強く否定したいほうだが、荒井さんにだけはとても議論を吹っかけ声高に言い争いする気にはなれない。そんな気持ちにさせてくれる人なのである。

正直いってこの分野でも、他の世界同様いろいろ角突き合いやら、足の引っぱり合いやらがある。UFOのような宇宙のロマンを相手にしていても、わがテンション民族の悪いクセは治らぬらしく、理論や研究姿勢の差異だったものが、すぐ感情的対立にすり代えられてしまう。そんな世界を20年以上もまとめてきた荒井さんは、ほんとに尊敬に値する。

今も荒井さんの元には、あらゆる世代のUFO研究家が慕い集まっているが、彼らの間で氏の悪口が言われたことなど一度もない。そういえば、荒井さんと親しい星さんは、私の顔を見るたびによくこうも言う。「荒井さんて、ほんとに人格者だね。あんな人はほかにいないよ」

そのたびに私は、自分がいかに非人格者かと言われているような気がしてきて、穴があったら逃げてみたい気持ちに駆られるのだ。私にとって荒井さんは、いろんな意味でかけがえのない人である。(終わり)

参考文献 UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史

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